第3話
あれから数日、私は村井のことを考えずにはいられなかった。
会社からの帰り道、雨上がりの夜道、食卓の後片付け――ふとした瞬間に、彼の温もりと息遣いがよみがえる。胸の奥に忍ばせた熱は、どうにも消えることがなかった。
夜、電話が鳴った。村井の声は落ち着いているようでいて、どこか真剣さを帯びていた。
「今夜、少しだけ会えませんか。話したいことがあります」
私は間を置き、うなずくように答えた。心の中では、恐怖と期待が交錯していた。
居間に座った村井は、静かに私の目を見つめた。
「……奥さま、正直に言います。僕たちの関係は、体の相性があまりにも良すぎて、僕自身、止められない。けれど、続けるかどうかは、すべて奥さまの判断に委ねたい」
その言葉は重く、しかし真摯で、私の心に静かに響いた。
迷いが生まれる。もし関係を続ければ、心の奥の平穏は壊れるかもしれない。だが、あの夜の記憶を一度でも忘れられるだろうか――。
村井は続けるように、そっと手を伸ばし、私の指先に触れた。
「どうか、考えてください。無理に答えを出さなくてもいい。ただ、正直な気持ちを聞かせてほしい」
指先が触れ合った瞬間、私は心の奥で何かが決まった気がした。
迷い、悩み、恐れる自分がいる。しかし、あの夜の感覚をもう一度だけ、確かめたいと思う自分もいた。
「……一度だけ、会いたい」
言葉が小さく漏れ、村井は驚いたように目を見開いた。だがすぐに、安堵と喜びの色が広がる。
「……わかりました。今日だけですね」
彼の声は低く、そして深く胸に響いた。
夜の空気はしんと冷え、窓の外の街灯が雨上がりの道を淡く照らしていた。
私は決心を胸に抱き、椅子に座ったまま深く息を吸った。
心の奥で、これが最後の一夜になるかもしれない――それでも、確かめたい思いが、静かに燃え上がっていた。
つづく
作者紹介
奈良あひる 1990年生まれ 渋谷の会社員
趣味で体験をいかした青春小説を書いています。応援よろしくお願いします。