第3話「フィルムの裏側」
私は、言い訳をひとつも用意しなかった。
週末の朝、駅まで夫に車で送られた。
「少し疲れちゃって。潮の匂いでも嗅いできたいの」
そう言うと、夫は「気をつけて」と笑った。
左手薬指には、いつも通りの細いゴールドの指輪。
それが、今回だけは妙に重く感じた。
彼の写真展は、小さなギャラリーの二階にあった。
海辺の町で、観光ルートから少し外れた場所。
看板も出ていない。けれど、足はまっすぐそこへ向かっていた。
階段をのぼり、木製のドアを押す。
冷たい空気。静かな音楽。
壁には、あの男が撮った“女たち”が並んでいた。
そして——
あった。
白黒の、正方形の一枚。
あの夜、浴衣のまま彼に背を向けた自分の姿。
襟が少しだけ落ちて、肩甲骨が覗いている。
左手が胸元を押さえていて、指輪の痕がくっきりと写っていた。
ぞわりと背中に鳥肌が立った。
撮られていた。気づかぬうちに、
私の「秘密の印」を。
「来ると思ってました」
背後から、低い声。
振り返らなくても、彼だとわかった。
「……載せたのね」
「この写真だけは、“見てもらいたかった”んです」
私は何も言わなかった。
ただ、心臓がゆっくりと熱くなるのを感じていた。
身体の芯が、すでに彼の記憶を呼び起こしている。
「部屋、取ってあります。よかったら」
「……ワインもある?」
彼は微笑んだ。
女はその笑みを見て、なにもかも許してしまう気がした。
そして私はそのあとどうなるのかに興味があった。
お話するだけなのか、写真をとるのか、それとも…
旅館の部屋は、あの夜とは違って、もっと奥まった場所だった。
ベッドの上に座ると、彼は言葉より先に唇を重ねてきた。
強く、焦るようなキスだった。
「俺、ずっと待ってました」
「指輪の痕、残しておいたの」
「……見た瞬間、また抱きたいと思った」
彼のタッチはやはり夫のもとは違った。
何度も絶頂のふちに連れて行かれて、
やがて、彼が身体を重ねてきた。
私「欲しいの、あなたの、全部」
ベッドが軋み、部屋に湿った音が満ちていく。
何度も果てた。
熱が、注がれる感覚。
女は目を閉じ、震えながらその余韻を受け止めた。
シャワーの音が遠くで聞こえる。
シーツを引き寄せながら、女は鏡に映る自分を見た。
乱れた髪。
赤く腫れた唇。
首筋には小さな痕。
だけど、それよりも——
左手の指輪が、ひどく馴染んで見えた。
夜、帰りの電車の窓に映る顔は、
どこか穏やかだった。
愛されていた、とは思わない。
でも、確かに抱かれていた。
そして、まだ終わっていない。
この身体には、
あの男の匂いが残っている。
帰宅して、夫に気づかれるだろうか。
そんなことを考えながら、
駅の階段を下りた。
つづく
第4話