田中屋の夕刻日誌「家の中にある共用部分と専有部分についての海賊盤論文」

夕刻日誌
夕刻日誌

6月21日のつづき

ここからはAの人間レベルの話になってくる。

話は聞く場合、
BからAへの説明
片付けるのは簡単です。でも片付けて本当にいいのですか。
片付けたなら、帰ってくればそのまま部屋に入り、麦茶だけ取りに行って、部屋でギターの音が聞こえてきて、音がやむ。そして、雑誌を読む。音がしなくなれば、ACはBが寝たのか勉強しているのか、何をしているのか全くわからない。(※言うまでもないが、見張りたい、見張られたい、それが大事と言いたいわけではない)

そして、リビングにいないわけだから、Bの些細な変化(異変)こともわからない。
気軽に話しかけることもできない。
話す慣習がなくなれば、どんどん話すきっかけがなくなっていく。
そこに、無理矢理話そうと部屋を開けるなら、Bは突然開けられたらビックリすると鍵をかけるようになる。
それはもう関わらないでくれといっているようにもとれる。
関係なかったCもそれを食らってしまう。
用があるときがけ、BはACに対して話しかける。
用とは事務的な話となる。
それは会話と呼べるのだろうか。
会話は大事と考えます。
※大事ではないと考えるようであれば、この話はハナから時間の無駄でしたね。
楽しいことも苦しいことも共有できない。個人行動。家族でもなく、個人。ルームシェア以下。

これらのことまで考えた上で、物を自分の部屋に入れろと言っているのか。ここまで発想が及んでいるのか。

つまり

共用部分に物を置いてもいい。
家とは、家族というものがあればなんでもいい。
ボロい家でも、狭い家でもなんでもいい。
いつでも帰れる場所、自由な場所、休まる場所がいい。
雨漏りしても、隙間風が吹いてもいい。

と、言いたいところですが、
「いい」のあとに、「じゃない」をつけて、なぁなぁぐらいがいいじゃないの。

あ、補足でいうと、一人ひと部屋あるというのがポイントで、専有部分については個人の自由。自分の世界を作ればいい。

みんな、子供も大人も、社会があって、みんな大変。
とにかく、家は休まるように。

そんな家がほしくなったのさ。

タイトルとURLをコピーしました