=青春プチロマン小説=ありそうでなさそうで、それでも起きそうなロマンスをお届けする短篇小説。きっとどこかで起きている。
読み切り エスカレーターガール

夜の新宿で終電を逃した私は、少し酔っていた。
知らない男性に声をかけられ、断る気力がなく、ついその流れで近くのホテルへ。
名前も知らないまま、短い時間を過ごした。
朝、部屋を出るときには、後悔と安堵が混じり合っていた。
鏡に映る自分は、いつもと少し違う表情をしていた。
首筋に残ったかすかな痕跡を、指でそっと隠した。
家に帰ると、夫はリビングでコーヒーを飲んでいた。
「おかえり。遅かったね」
いつもの穏やかな声。
私はソファに座り、深呼吸してから口を開いた。
「ねえ、聞いてほしいことがあるの」
夫はカップを置き、私の目を見た。
私は目を逸らさず、静かに話し始めた。
「昨夜、終電を逃して……知らない人と、ホテルに行った」
夫の表情が一瞬固まったが、黙って続きを待っている。
「名前も知らない人だった。
ただ、寂しかったのか、弱かったのか……その人に寄りかかってしまった。
夫とは違う、初めての感覚だった」
部屋に重い静けさが広がった。
夫は動かず、私を見つめている。
私は続ける。
「怖かった。でも、心のどこかで求めていたのかもしれない。
今でも胸がざわついている。
ごめんね。でも、隠したくなかった」
夫の手が、ゆっくりと私の膝に置かれた。
温かかった。
「……それで?」
声は低く、感情を抑えているようだった。
私は夫の目を見据えた。
「これからも、こうやって話したい。
私が他の人と過ごした時間のこと、全部」
夫はしばらく沈黙した。
やがて、私の髪を優しく撫でた。
「わかった」
その声は、驚くほど落ち着いていた。
「次は……もっと、詳しく教えてくれ」
私は息を呑んだ。
夫の指が、私の頬に触れる。
そこに、昨夜の記憶がまだ残っているような気がした。
胸の奥で、何かがゆっくりと動き始めた。
それは、後悔でも、罪悪感でもなく、
新しい何かの始まりのように感じられた。
おしまい

