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小説「湯河原慕情」最終話 作/奈良あひる

由利子は、薄い毛布の端を指で摘まんだまま目を覚ました。
まだ灯りは落ちたまま、窓の向こうには白んだ湯けむりだけが漂っている。
どこか遠い場所から、風の音がゆっくりと入りこんでいた。
隣を見ることはしなかった。
見なくても、そこにいたことは思い出せてしまう。
服を整え、鏡の前で髪を直したとき、
僅かに鼻孔に残る香りが、自分のものではない気がして、
由利子はそっと息を止めた。
外へ出ると、湯河原の朝はやけに澄んでいて、
まるで何事も起きなかったような顔をしていた。
※
宿へ戻ると、夫が入口で待っていた。
驚くことに、子どもまで一緒だ。
「お母さん、お土産買ってきたの?」
笑いながら走ってくる小さな手に、
由利子は返事より先に微笑んだ。
夫が言う。
「朝市に寄って、干物が安かったんだ。戻りが遅いから、迷ったのかと思ったよ」
心配するでもなく、疑うでもなく、
ただ当たり前の言葉として渡ってくる声が、
どこかひどく重かった。
由利子は、小さな紙袋を提げて見せた。
「駅前で、少し買い物を」
夫は深く追求しなかった。
子どもは袋に顔を近づけ、干物を見て喜んでいる。
そのとき、ふと、
由利子自身の中にある輪郭だけがくっきり浮かび上がったように感じた。
湯けむりのように曖昧だった昨日の感触が、
現実の足音に押し流されていく。
「早く帰ろう。朝ごはんを作らなきゃ」
自分で言って、自分の声が少しだけ違って聞こえた。
夫は気づかない。子どもも気づかない。
気づいているのは、由利子だけだった。
※
家に戻ると、鍋の蓋を開ける湯気が、
どこか懐かしい匂いを立ちのぼらせた。
由利子は、ひと呼吸して、
湯気の向こうの景色を確認した。
いつもの台所。いつもの朝。
壁にかけた時計が、淡々と時間を刻んでいる。
それでも、誰にも分からない香りが身体のどこかに残っている。
落ちない染みではなく、
薄く、風に紛れるような跡として。
由利子は、味噌を溶きながら、
その跡が、今日たった一日で消えるのか、
それとも、静かな影のように残るのか、
少しだけ考えた。
汁の湯気が顔にかかる。
その暖かさに、思考がふっと途切れた。
「ごはん、できるよ」
夫と子どもへ向けたその声は、
昨日とも、明日とも違う、
たしかな今日の声だった。
湯気の消えた朝に、
由利子は、静かに戻っていった。
おしまい
作者紹介
田中宏明 1980年生まれ 東京都昭島市出身の写真家・放送作家。
2003年 日本大学文理学部応用数学科 ぎりぎり卒業。下北沢・吉祥寺での売れないバンドマン生活&放送作家として日テレ・フジテレビ・テレビ朝日を出入りする。
現在はピンでラジオと弾き語りでのパフォーマンスをおこなっている。
◆写真家:シティスナップとかるーい読物「井の頭Pastoral」撮影・編集
◆放送作家:ラジオドラマ「湘南サラリーマン女子」「わけありキャバレー」原作・脚本
出演ラジオ 第102回
田中屋のシティスナップ

