病室の午後は、柔らかい光に満ちていた。夫の寝顔を見つめながら、私は椅子に腰を下ろす。呼吸は浅く、体は痩せて骨ばっている。医師の言葉が胸に重くのしかかる。「危険な状態です」──平穏だった日常は遠く、手の届かないものに感じられた。
そんなとき、ドアの向こうから声がした。「失礼します、掃除に参りました」
低く、穏やかな声に、胸が少しだけ和らいだ。振り向くと、日焼けした顔立ちの男性が白衣を着て立っていた。名前も知らない、ただの病院スタッフのはずなのに、不思議と安心感が胸に広がった。
「こんにちは、私は佐藤です。少しお部屋をお掃除してもよろしいですか?」
「はい、お願いします」と答えると、彼は静かに掃除を始めた。言葉は交わさなくても、気配だけで心が通じ合うような、不思議な感覚に包まれた。
数日が過ぎるうちに、彼は病室に来るたび、私の話に耳を傾けてくれた。病気の不安、夫への思い、日々の小さな愚痴。言葉にするだけで胸の奥の重さが少しずつ軽くなる。私もまた、彼の温かい視線に自然と心を開いていった。
ある夜、病室が静寂に包まれた。夫が眠るベッドの横で、私は椅子に座り、天井を見上げていた。ドアが静かに開き、彼が入ってきた。「まだ眠れませんか?」小さくうなずくと、彼はそっと椅子に腰を下ろし、私の手を取った。
その手の温もりは、凍りついた心を溶かすように温かかった。視線が絡み合い、互いの呼吸が少しずつ重なっていく。体は自然に安心感を求め、私は彼の存在に委ねるしかなかった。
夜が深まるにつれ、互いの距離は静かに近づいていった。手を握る、肩に寄せる、ささやく声──それだけで心は高鳴り、孤独や不安が溶けていく。唇を触れ合わせるわけではなくても、互いの存在を全身で感じ、心の奥に温もりが広がった。
翌朝、夫の寝顔を見つめると、胸に微かな罪悪感が湧く。しかし、佐藤の静かな気配を思い出すと、私は自分の心の揺れを否定できなかった。孤独な日々の中で、誰かに寄り添われることの力強さを、初めて実感した。
日々は静かに過ぎ、私たちの関係も病室の時間に沿って密かに続いた。昼間は看病に専念し、夜には互いの言葉や仕草で心を確かめ合う。触れ合うことはなくても、視線や呼吸のリズム、ささやきに心は満たされる。孤独と不安を抱えたまま生きる私にとって、それは小さな救いだった。
ある夜、私は胸の奥でこぼれる思いを吐き出した。「どうして、こんなにあなたに惹かれてしまうの…」
彼は静かに頷き、声を落として言った。「人は、不安や孤独に触れると、誰かを求めるものです」
その言葉が胸に響き、私は静かに涙をこぼした。罪悪感と安堵が混ざり合い、心の奥に新しい感情が芽生えたのを感じる。
夜明け、再び夫の横に戻ると、胸の奥に複雑な感情が渦巻いた。けれど、佐藤の存在が教えてくれたのは、孤独な時に寄り添ってくれる人の温もりこそ、生きる力になるということだった。
病室の小さな奇跡のような日々は続き、私は互いの存在に支えられながら、夫の看病と自分の心の救いを同時に抱きしめていった。愛は罪ではなく、孤独を温めるものなのだと、静かに胸の奥で信じた。