あの雨の夕暮れから、一週間が過ぎた。
真砂子は、まるで何事もなかったかのように家事をこなし、夫と並んで食卓についた。けれど、ひとりで洗濯物を畳むときや、夜更けに湯呑を手にしたとき、ふと胸の奥で熱が揺れる。
触れなかった唇の感触。
落ちかけて、引かれていった手の温度。
――あれは幻だったのかしら。
そう思えば思うほど、確かに残る気配が、彼女を惑わせた。
秋の風が立ち始めたある午後、電話が鳴った。
受話器を取ると、あの声がした。
「……先日は、ありがとう。急に押しかけて、迷惑だったろう」
「いいえ……」
それ以上、言葉が出なかった。
沈黙が、糸のように長く続いた。
「また、会ってもいいだろうか」
真砂子の指先が受話器を強く握る。
「ええ……ただ、昼間なら」
自分でも驚くほど、声は穏やかだった。
約束の日。
村井は人通りの少ない喫茶店に現れた。深い色のジャケットに、まだ夏の名残を帯びた白いシャツ。
互いに挨拶を交わし、向かい合って腰を下ろす。カップの湯気がゆらぎ、静かな音楽が流れる。
「あなたに会うと、時間が戻るようだ」
村井の言葉に、真砂子は微笑んだ。
けれど胸の奥では、押し寄せる波のように何かが高まっていた。
「先日のこと……」
真砂子が口を開いた。
「もし、あの時……」
そこまで言って、言葉を切る。
村井は真剣な眼差しで、彼女を見つめていた。
触れなかった唇。
伸ばしかけた手。
すべてが、今ふたたび眼前に蘇る。
「あなたを抱きしめたら、戻れなくなると思った」
村井の低い声に、真砂子の喉が鳴る。
外の風が窓を揺らし、カーテンの影が二人を包んだ。
その時、店員がコーヒーを運んできた。
熱い香りが二人の間に広がり、緊張は一瞬解かれる。
けれど、真砂子は知っていた。
このまま何度も会えば、やがては一線を越えてしまう。
夫との日常と、いま胸に芽吹いた熱情。その間で揺れる自分を、もうごまかせないと。
「村井さん……」
呼んだ声は、思いのほか甘く震えていた。
その響きに応えるように、村井の指先がそっとカップの取っ手を離れ、卓の上で彼女の手を探す。
触れるか触れないかの距離で止まる。
先日の夕暮れと同じ。けれど今回は、互いに逃げようとしなかった。
真砂子の胸に、秋風の冷たさと、熱い焔のような想いが同時に流れ込んでくる。
――もう、遅いかもしれない。
そう思いながら、彼女は目を閉じた。