連載小説「女の風景写真」第10話 作/奈良あひる
第10話
由紀子は、以前よりもパソコンを開く時間が長くなっていた。
言葉を綴ることが、ひそかな習慣から、彼に会うための準備になりつつあったからだ。
――この続きを、きっと彼に読ませたい。
そんな思いが、文字のひとつひとつを濃くしていった。
喫茶店で会うと、彼はいつものように控えめにノートパソコンを覗き込む。
由紀子はわざと、途中のページを閉じずに残しておく。
「ここまで書いたの」
と、言葉少なに差し出すと、彼は頷き、静かに目を落とす。
画面に吸い込まれる彼の横顔を眺める時間は、由紀子にとって甘美な緊張だった。
「……あなたは、記憶を、こんなふうに残すんですね」
読み終えた彼がそう呟くと、胸の奥で何かがふっと弛む。理解された、という安堵が、言葉よりも強い。
次に会ったときには、さらに続きを――。
日記は「彼に見せるために」書かれるようになっていった。
昨日の自分の鼓動や、触れられたときの震えを、少しずつ、しかし決して曖昧にせず記す。
それを彼が受け止めてくれるたび、由紀子の中で確かな手応えが積み重なっていく。
「これは、ただの記録じゃないですね」
ある日、読み終えた彼が言った。
「あなたが僕に差し出している気持ちそのものだ」
頬が熱くなる。けれど否定できなかった。
彼に見せることが、自分を開いていく作業そのものなのだと、由紀子は痛感していた。
言葉を分かち合うたびに、距離は少しずつ、確実に縮まっていく。
ページを重ねるたびに、二人の間にだけ流れる時間が深まっていく。
――日記は、ただの文章ではなくなっていた。
それは、由紀子と彼を繋ぐ、秘密の扉になりつつあった。