育ててくれてありがとうはありがとうなのですが…
子育ては不安
そんな一般論は確かにあると思います。
※僕の少ないサンプルより
僕は育ててくれてありがとう!とは思っているのですが、真に心の中からそう思っているかはわからないと、ふと立ち止まるときがあります。
今回の卒論のテーマはこれ!
「感謝が誤解を生む!?」
それはどのような視点なのか。
「例えば育ててくれてありがとう」だとすると、その言葉に省略されている部分として、
・本来育てなくてもいいのに、
または
・育てないという選択もできる中、
育ててくれてありがとう
と、省略されている可能性を否定しきれなくなります。
この省略部分も感じ取った上で、親に感謝している人は、当然、自分のその権利があると認識します。
その権利とは、「子育てをするかどうか選べる権利」※ここでいう子育ては現に子供の世話をすることのみならず「子育てのお金のために働くというのも立派な子育て」を含みます。
これを使うと、「おれは子育てなんかしないで、好きなように生きるぜ!」も当然正しくなります。
まったく問題ないです。
では、「ここでいう親に感謝しない」とは
「育てることが当然」という考え方
つまり、子育ては義務という考え方です。
これは、義務なので、ありがたいけど、それは当然だということ。
つまり、自分も当然子育てするし、子育てしたいという考え方です。
子育てをすれば、当然お金と時間はそれに当てられることになります。
出産前にやっていたことは、男も女もすすまなくなります。
なので、その道を選べる権利意識みたいなもの普及することによって、子どもは減っていくと考えられます。
その普及の原因の一つが、親への感謝なのです。
ここへつながります。
ここが、権利意識を確認するきっかけになります。
経済的不安のなか、将来のに希望が見えない。
それは、自分が生きる分の未来だけでなく、子供の生きる未来が明るく見えないという理由で子育てを選ばない人もいると思います。
これが、少子化の原因のひとつと考えます。
もし、人口を増やしたかったら、権利意識をうまないこと。
つまり、親に感謝しないことです。
ここでは、補足になりますが、なんとかかんとか子育てが終わる頃、本当に親に感謝する気持ちが溢れるのではないかと思います。