夕暮れの客間 第4話(最終回)奈良あひる

短篇小説

夜が明けきる前に、鳥の声が遠くで聞こえた。
 真砂子は、まだ夢の底にいるように布団の中で目を開けた。
 隣には、眠りに落ちた村井の横顔があった。

 月明かりに照らされていた影はもうなく、障子の隙間から白んだ光が流れ込む。
 現実と夢の境目が曖昧なまま、真砂子は指先で布団の縁をなぞった。
 ――本当に、越えてしまった。

 村井の呼吸は穏やかで、まるで何十年も一緒にいたかのような安らぎを漂わせていた。
 けれどその安らぎが、かえって胸を痛める。
 この温もりは、一時のものにすぎないと分かっているからだ。

 台所の時計が六時を告げた。
 いつもなら夫の朝食を用意している時刻だ。
 湯を沸かす音も、新聞を開く気配もない静けさが、かえって不自然に思えた。

 「……起きていますか」
 村井が目を開け、低い声で囁いた。
 真砂子は頷き、かすかに笑った。

 「幸せですか」
 問い返されたその言葉は、昨夜と同じ。
 だが今は、胸に突き刺さる。
 「ええ……今は」
 そう答えながら、声が震えていた。

 村井は布団の上からそっと彼女の手を握った。
 その温もりに、もう少しだけ浸っていたいと願う自分がいた。
 けれど、やがて来る現実を知っている。

 外では、通勤の人々の足音が聞こえ始めていた。
 世界は普段通りに動き出しているのに、ここだけが別の時間に閉ざされているようだった。

 「もう行かなくては」
 村井がそう言い、布団を抜け出した。
 衣擦れの音が、夜の余韻を壊すように響く。

 玄関で靴を履く姿を見送りながら、真砂子は胸の奥で何度も自分に言い聞かせた。
 ――これは、一度きり。
 けれど、指先に残る体温がその言葉を裏切る。

 扉が閉まる音がして、家の中は再び静まり返った。
 真砂子は居間に戻り、まだ乱れたままの座布団に腰を下ろした。
 障子越しに朝日が差し込み、畳の上に長い影を落としている。

 胸の奥で、後悔と幸福感が絡まり合い、涙が滲んだ。
 彼女は唇を噛みしめ、ただ静かに両手を重ねた。
 その手には、まだ村井の温もりが確かに残っていた。

おしまい

タイトルとURLをコピーしました