夜が明けきる前に、鳥の声が遠くで聞こえた。
真砂子は、まだ夢の底にいるように布団の中で目を開けた。
隣には、眠りに落ちた村井の横顔があった。
月明かりに照らされていた影はもうなく、障子の隙間から白んだ光が流れ込む。
現実と夢の境目が曖昧なまま、真砂子は指先で布団の縁をなぞった。
――本当に、越えてしまった。
村井の呼吸は穏やかで、まるで何十年も一緒にいたかのような安らぎを漂わせていた。
けれどその安らぎが、かえって胸を痛める。
この温もりは、一時のものにすぎないと分かっているからだ。
台所の時計が六時を告げた。
いつもなら夫の朝食を用意している時刻だ。
湯を沸かす音も、新聞を開く気配もない静けさが、かえって不自然に思えた。
「……起きていますか」
村井が目を開け、低い声で囁いた。
真砂子は頷き、かすかに笑った。
「幸せですか」
問い返されたその言葉は、昨夜と同じ。
だが今は、胸に突き刺さる。
「ええ……今は」
そう答えながら、声が震えていた。
村井は布団の上からそっと彼女の手を握った。
その温もりに、もう少しだけ浸っていたいと願う自分がいた。
けれど、やがて来る現実を知っている。
外では、通勤の人々の足音が聞こえ始めていた。
世界は普段通りに動き出しているのに、ここだけが別の時間に閉ざされているようだった。
「もう行かなくては」
村井がそう言い、布団を抜け出した。
衣擦れの音が、夜の余韻を壊すように響く。
玄関で靴を履く姿を見送りながら、真砂子は胸の奥で何度も自分に言い聞かせた。
――これは、一度きり。
けれど、指先に残る体温がその言葉を裏切る。
扉が閉まる音がして、家の中は再び静まり返った。
真砂子は居間に戻り、まだ乱れたままの座布団に腰を下ろした。
障子越しに朝日が差し込み、畳の上に長い影を落としている。
胸の奥で、後悔と幸福感が絡まり合い、涙が滲んだ。
彼女は唇を噛みしめ、ただ静かに両手を重ねた。
その手には、まだ村井の温もりが確かに残っていた。
おしまい