十月の夜は、思いのほか早く冷え込んだ。
真砂子は、夫の出張が決まった日から、胸の奥でざわめくものを抑えきれなくなっていた。
「二泊三日で大阪に」
夫の何気ない言葉を聞いたとき、心のどこかが震えたのを、自分でも否定できなかった。
その夜、村井に電話をした。
「……今夜、会えますか」
わずかな間の後、「行く」と答える声が響いた。
灯りを落とした客間に、時計の秒針がやけに大きく刻まれていた。
玄関の呼び鈴が鳴ると同時に、心臓が跳ねる。
戸を開けたとき、村井の視線は言葉を持たず、ただ熱だけを真砂子に伝えた。
二人はほとんど言葉もなく、座敷に向かった。
障子越しの月明かりが、白い輪郭を柔らかく照らす。
村井が差し出した手に、真砂子はついに自分の指を重ねた。
その瞬間、全身から力が抜け、静かな嗚咽のような息が漏れた。
「ずっと……こうしたかった」
村井の声が震える。
唇が重なり、時の流れが一気に崩れた。
香りも、吐息も、肌の温度も、すべてが混じり合い、境界が消えてゆく。
真砂子は、これまで大切に守ってきた暮らしが遠のいていくのを感じながらも、その背後にひと筋も後悔はなかった。
抱き寄せられる腕のなかで、彼女ははじめて女としての自分を取り戻したように思えた。
やがて、衣擦れの音が重なり、畳に落ちる影は一つになった。
月明かりに照らされた障子の向こうで、風が枝を揺らしている。
その音さえも、二人の熱に吸い込まれていった。
――越えてしまった。
その思いが脳裏をよぎったとき、真砂子の頬を涙が伝った。
だが、それは悲しみではなかった。
「真砂子さん……」
名前を呼ぶ声に応えながら、彼女はただ静かに目を閉じた。
夜は深まり、二人の影は幾度も重なり合った。
外の世界がどう変わろうと、この一夜だけは永遠に記憶に刻まれるだろう。