夕暮れの客間 第2話 

短篇小説
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あの雨の夕暮れから、一週間が過ぎた。
 真砂子は、まるで何事もなかったかのように家事をこなし、夫と並んで食卓についた。けれど、ひとりで洗濯物を畳むときや、夜更けに湯呑を手にしたとき、ふと胸の奥で熱が揺れる。

 触れなかった唇の感触。
 落ちかけて、引かれていった手の温度。

 ――あれは幻だったのかしら。
 そう思えば思うほど、確かに残る気配が、彼女を惑わせた。

 秋の風が立ち始めたある午後、電話が鳴った。
 受話器を取ると、あの声がした。
 「……先日は、ありがとう。急に押しかけて、迷惑だったろう」
 「いいえ……」
 それ以上、言葉が出なかった。

 沈黙が、糸のように長く続いた。
 「また、会ってもいいだろうか」
 真砂子の指先が受話器を強く握る。
 「ええ……ただ、昼間なら」
 自分でも驚くほど、声は穏やかだった。

 約束の日。
 村井は人通りの少ない喫茶店に現れた。深い色のジャケットに、まだ夏の名残を帯びた白いシャツ。
 互いに挨拶を交わし、向かい合って腰を下ろす。カップの湯気がゆらぎ、静かな音楽が流れる。

 「あなたに会うと、時間が戻るようだ」
 村井の言葉に、真砂子は微笑んだ。
 けれど胸の奥では、押し寄せる波のように何かが高まっていた。

 「先日のこと……」
 真砂子が口を開いた。
 「もし、あの時……」
 そこまで言って、言葉を切る。
 村井は真剣な眼差しで、彼女を見つめていた。

 触れなかった唇。
 伸ばしかけた手。
 すべてが、今ふたたび眼前に蘇る。

 「あなたを抱きしめたら、戻れなくなると思った」
 村井の低い声に、真砂子の喉が鳴る。
 外の風が窓を揺らし、カーテンの影が二人を包んだ。

 その時、店員がコーヒーを運んできた。
 熱い香りが二人の間に広がり、緊張は一瞬解かれる。

 けれど、真砂子は知っていた。
 このまま何度も会えば、やがては一線を越えてしまう。
 夫との日常と、いま胸に芽吹いた熱情。その間で揺れる自分を、もうごまかせないと。

 「村井さん……」
 呼んだ声は、思いのほか甘く震えていた。

 その響きに応えるように、村井の指先がそっとカップの取っ手を離れ、卓の上で彼女の手を探す。
 触れるか触れないかの距離で止まる。
 先日の夕暮れと同じ。けれど今回は、互いに逃げようとしなかった。

 真砂子の胸に、秋風の冷たさと、熱い焔のような想いが同時に流れ込んでくる。
 ――もう、遅いかもしれない。
 そう思いながら、彼女は目を閉じた。

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