青春プチロマン小説「峠の向こう」(テレビサイズ)作/奈良あひる

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横川から軽井沢へ上るバスは、思ったより空いていた。

五月の終わりだった。窓の外では、まだ春の名残のような新緑が山肌を走っている。

美代子は一人で軽井沢へ向かっていた。

夫には「友達と会う」と言ってある。嘘ではない。会う友達は、もう何年も前から会っていないけれど。

隣の席に男が座ったのは、バスが碓氷峠へ差しかかってからだった。

「ここ、いいですか」

「どうぞ」

男は四十代半ばに見えた。会社員らしい服装だったが、ネクタイはしていない。膝の上に古いカメラを置いていた。

「写真、お好きなんですか」

美代子が尋ねると、男は少し笑った。

「昔は。今は撮るより、撮らなかったことを後悔しています」

妙な言い方だった。

けれど、その言葉が美代子の胸に残った。

結婚して十九年になる。

夫は悪い人ではない。むしろ、よくできた人だった。

朝は新聞を読み、夜は決まった時間に帰る。誕生日には花を買ってくる。

ただ、いつからか、美代子の顔を見なくなった。

男は窓の外を見ながら言った。

「軽井沢には何度も?」

「初めてです」

「それなら、少し歩いたほうがいいですよ。ホテルより、古い道のほうが面白い」

バスを降りてからも、二人は偶然を装うように同じ道を歩いた。

木立の中の喫茶店で珈琲を飲み、古い教会を眺めた。

名前を聞いた。

男は俊夫と言った。

美代子は、結婚していることを隠さなかった。

俊夫もまた、妻がいると言った。

それなのに、別れる理由を二人とも探さなかった。

夕方、ホテルの前で、美代子は立ち止まった。

「今日は、ここまでにしましょう」

俊夫は何も言わなかった。

その沈黙が、かえって美代子には苦しかった。

「もし、もう少し一緒にいたら……」

そこまで言って、美代子は笑った。

「ろくなことになりませんね」

「たぶん」

二人は笑った。

そのあと、美代子は俊夫の手に触れた。

ほんの一瞬だった。

けれど、その一瞬で十九年間の結婚生活が、ずいぶん遠くに感じられた。

その夜、美代子は俊夫の部屋へ行った。

何を話したのか、翌朝にはほとんど覚えていなかった。

ただ、誰かに女として見られることが、こんなにも寂しさを連れてくるものなのだと知った。

翌朝、横川へ戻るバスを待ちながら、美代子は夫からの電話を受けた。

「どうだった、軽井沢」

「寒かったわ」

「そうか」

夫はそれだけ言った。

美代子は笑った。

「あなた、軽井沢って行ったことあった?」

「ないな」

「じゃあ今度、一緒に行きましょうか」

電話の向こうで、夫が少し黙った。

「……そうだな」

バスが来た。

美代子は乗り込んだ。

窓際の席に座り、峠を下りながら、昨日のことを思い出した。

忘れるつもりはなかった。

けれど、忘れないつもりもなかった。

ただ、帰る場所があるということだけは、昨日より少しだけよく分かっていた。

峠の向こう

横川から軽井沢へ上るバスは、思ったより空いていた。

五月の終わりだった。窓の外では、まだ春の名残のような新緑が山肌を走っている。

美代子は一人で軽井沢へ向かっていた。

夫には「友達と会う」と言ってある。嘘ではない。会う友達は、もう何年も前から会っていないけれど。

隣の席に男が座ったのは、バスが碓氷峠へ差しかかってからだった。

「ここ、いいですか」

「どうぞ」

男は四十代半ばに見えた。会社員らしい服装だったが、ネクタイはしていない。膝の上に古いカメラを置いていた。

「写真、お好きなんですか」

美代子が尋ねると、男は少し笑った。

「昔は。今は撮るより、撮らなかったことを後悔しています」

妙な言い方だった。

けれど、その言葉が美代子の胸に残った。

結婚して十九年になる。

夫は悪い人ではない。むしろ、よくできた人だった。

朝は新聞を読み、夜は決まった時間に帰る。誕生日には花を買ってくる。

ただ、いつからか、美代子の顔を見なくなった。

男は窓の外を見ながら言った。

「軽井沢には何度も?」

「初めてです」

「それなら、少し歩いたほうがいいですよ。ホテルより、古い道のほうが面白い」

バスを降りてからも、二人は偶然を装うように同じ道を歩いた。

木立の中の喫茶店で珈琲を飲み、古い教会を眺めた。

名前を聞いた。

男は俊夫と言った。

美代子は、結婚していることを隠さなかった。

俊夫もまた、妻がいると言った。

それなのに、別れる理由を二人とも探さなかった。

夕方、ホテルの前で、美代子は立ち止まった。

「今日は、ここまでにしましょう」

俊夫は何も言わなかった。

その沈黙が、かえって美代子には苦しかった。

「もし、もう少し一緒にいたら……」

そこまで言って、美代子は笑った。

「ろくなことになりませんね」

「たぶん」

二人は笑った。

そのあと、美代子は俊夫の手に触れた。

ほんの一瞬だった。

けれど、その一瞬で十九年間の結婚生活が、ずいぶん遠くに感じられた。

その夜、美代子は俊夫の部屋へ行った。

何を話したのか、翌朝にはほとんど覚えていなかった。

ただ、誰かに女として見られることが、こんなにも寂しさを連れてくるものなのだと知った。

翌朝、横川へ戻るバスを待ちながら、美代子は夫からの電話を受けた。

「どうだった、軽井沢」

「寒かったわ」

「そうか」

夫はそれだけ言った。

美代子は笑った。

「あなた、軽井沢って行ったことあった?」

「ないな」

「じゃあ今度、一緒に行きましょうか」

電話の向こうで、夫が少し黙った。

「……そうだな」

バスが来た。

美代子は乗り込んだ。

窓際の席に座り、峠を下りながら、昨日のことを思い出した。

忘れるつもりはなかった。

けれど、忘れないつもりもなかった。

ただ、帰る場所があるということだけは、昨日より少しだけよく分かっていた。

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