田中屋スポーツ新聞10/12「続!ねずみ騒動後編」編集/田中宏明

シティスナップ
シティスナップ すーじーぐぁー 短篇小説

その夜ねずみはかかっていなかった。

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朝になってもねずみはかかっていなかった。
おそらく2階の真ん中の部屋の物入れの天井が開いていて、そこから出ていったのだと思う。
その天井は、すでに塞いでいる。

これで、家の中にいないはず。しかしここ2日、天井でも物音はしていないけど。

これでこの物語は終わりになりますかね。

ポルターガイストねずみ騒動なんて騒いでいた日がなつかしい。ちょっと前のことですが。

ここで一句

かじりかけ ポルターガイスト ねずみ騒動

トッピング短歌

それもここらで 謎にします

田中屋のシティスナップ「荻窪の女」

荻窪スナップ 撮影/田中宏明

ドラマ「スナックとねずみ(仮)」作/奈良あひる

カウンターの下を、茶色い影がすばやく走った。
 「また出たのよ、あの子」
 マリは苦笑いしながら氷をトングでつかむ。スナック〈月影〉の開店前。ネオンがまだ眠そうな顔をしている時間。ねずみは毎晩のように現れて、客の誰かの足元をすり抜けていく。
 「かわいいもんじゃないの」
 と、マリは言う。
 でも実際のところ、かわいいと思っているのは、彼女だけだった。

 その夜、ドアの鈴がちりんと鳴った。
 入ってきたのはスーツ姿の男、会社帰りらしい。どこかくたびれた背中をしていた。
 「いらっしゃい」
 マリが声をかけると、男は帽子を軽く脱いで会釈した。
 「ひとり、いいですか」
 「もちろん」
 カウンターに腰をおろした男のネクタイが少し曲がっているのを見て、マリは思わず直してやりたくなった。

 ビールを二口ほど飲んだ男は、ふと足元に目をやった。
 「……今、何か動きました?」
 「うちの同居人よ」
 「ねずみ?」
 「そう。夜の常連さん」
 マリが笑うと、男は少し安心したように口元をゆるめた。
 「へえ、たくましい店ですね」
 「生き延びるには、どっちも似たようなものよ」

 それから、男は何度も来るようになった。名前は田島。営業の仕事で、上司とうまくいっていないらしかった。
 「昼間は人の顔色ばかり見てるから、夜ぐらいは女の顔見てたいんだ」
 「安い慰めね」
 そう言いながらも、マリは笑っていた。笑うたび、カウンターの下で、あのねずみがカサリと音を立てた。

 ある晩、田島がふいに言った。
 「ママ、この店、いつまで続けるつもり?」
 「ねずみが出てこなくなるまでかしら」
 「それ、長生きするね」
 「ええ、私よりも」

 マリは氷を足しながら、ふと、手の甲に小さな傷跡を見つめた。あのねずみを追い払おうとして、棚の角で切ったのだった。痛みはもうないけれど、傷だけは残った。
 その夜、田島は遅くまで残った。
 「ねずみ、今日はいないね」
 「恋人ができたのかも」
 「恋人?」
 「私たちみたいに」
 マリはそう言って、グラスをふいた。

 それから、二人の距離はゆっくりと近づいた。田島は出勤前に顔を出すこともあり、マリは朝まで付き合うようになった。
 「奥さんに悪いわ」
 「もう別れてる」
 「そういうことにしておくわ」
 マリはそう言いながら、指先で田島のシャツのボタンをいじった。

 秋の終わり、ねずみがぱったり姿を見せなくなった。
 「出なくなったわね」
 「出ていったんだよ。居心地が悪くなって」
 「どっちが?」
 マリが聞くと、田島は答えなかった。

 年の瀬が近づいたころ、田島の姿も見えなくなった。電話も鳴らない。
 マリは静かな店で、カウンターの下に目をやった。
 ――ほら、あなたの席、空いてるわよ。
 そう呟いたが、返事はなかった。

 ある晩、閉店後にふと音がした。
 カサリ。
 マリは笑った。
 「おかえり」
 ねずみは棚の上にのぼり、ほこりのついたグラスの影に消えた。

 マリはグラスを磨きながら、ひとりごとのように言った。
 「恋もね、逃げて戻ってくるのよ。あんたと同じ」

 その夜、店のネオンがゆっくりと明滅した。
 〈月影〉という名前の文字が、冬の風に揺れながら、少し滲んで見えた。

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