
手術で縫った糸を抜く 済生会病院

共に過ごした糸ともお別れだ。気を失って額を縫って1周間経った。1分で作業は終わった。250円だった。
傷を塞いでくれてありがとうございます、糸とお医者さん。あの糸はどうなったのだろうか。
俳句
糸抜いて ハロウィン前の ノーメイク
季語:ハロウィン(秋)
解説
こんなにベタにアオタンができてガーゼを巻いたりすることがあるものなのですね。街はこれからハロウィンです。

田中屋のシティスナップ「原宿の女」

原宿スナップ 撮影/田中宏明
短編小説「縫った傷の糸」作/奈良あひる
縫った傷の糸を抜くのは、思っていたよりもずっと簡単だった。白い糸が一本ずつ皮膚の中から出てくるたびに、痛みよりも空虚さのほうが強く残った。鏡の前で消毒液を塗りながら、絆創膏の端を指で押さえた。傷は、もう閉じている。けれど、何かがまだ開いたままだった。
あの夜、彼に言われた言葉が耳の奥でかすれている。「君はいつも、傷を見せないで済ませようとする」。その通りだった。泣くことも、怒ることも、見苦しいと思っていた。けれど彼の前では、少しだけそれを許せた。だからこそ、別れは静かすぎて残酷だった。
ワンピースを着替え、淡い口紅を引く。外に出ると、秋の風がひやりと頬を撫でた。歩くたびに足の裏から、生活の音が立ち上がってくる。駅までの道に、小さな花屋がある。彼と初めて出会った場所だ。あのとき、彼はガーベラを買っていて、私は包装紙の色を褒めた。それが始まりだった。
今日は、花を買わなかった。手ぶらのまま電車に乗り、窓に映る自分を眺めた。少し痩せた気がする。傷を縫った頃よりも。時間が、体を削っていくのかもしれない。
彼の住むアパートは、変わらず古びたままだった。インターホンを押すと、少ししてから、あの声がした。「……誰?」
「私よ」
沈黙のあと、扉が開いた。部屋の中には、見覚えのある灰色のコートが椅子にかかっていた。彼は少し驚いた顔をして、それから笑った。「傷、もう平気?」
私はうなずいた。袖口の下で、糸を抜いた跡がかすかに疼いた。
「抜いたの。自分で」
「そう……怖くなかった?」
「怖くなかった。むしろ、何かを終わらせたくて」
彼は黙って私を見た。
おしまい
