青春プチロマン小説「横浜ルームナンバー508」 第5話 作/奈良あひる

短篇小説

=青春プチロマン小説=ありそうでなさそうで、それでも起きそうなロマンスをお届けする短篇小説。きっとどこかで起きている。 

第5話

秋の空がやたらと高く見える日だった。
関内の喫茶店、薄暗い壁際の席。
いつものように彼は先に着いていて、煙草の箱を指でくるくる回していた。

「……雑誌、そろそろ校了なんだ」

言い出した彼の目が、少しだけ泳いだ。

「例の“企画”?」

「うん」
「先日妻と話したんだ。俺たちのこと。おまえがどこかのだれかとしていることがつらかったって」
「え?!」
私たちのストーリーはそんな唐突におわるのかと思った。
「そしたら妻は、俺と君のことも併せて掲載したいと言ってきた」
「それって載るの?私たち雑誌に?」
「載るよ。俺たちのパートも。……それで、君に聞いておきたいことがあって」

「なに?」

「……君とのこと、今までに撮った写真も載せたい。顔や名前はもちろん伏せる。文章も、俺が書く」

一瞬、胸がきゅっと縮んだ。それでも、企画の方に振り切れば、この関係は浮気ではなく、正当化されるともとれるという冷静な視点もあった。
それは恥ずかしさでも、怒りでもなく、「ああ、ほんとうに誰かに見られるんだ」という妙な実感でもあった。

「奥さんの写真も、載るの?」

「載る。でも、妻のほうは演出された“浮気ごっこ”。俺のほうは、もう……ごっこじゃ済んでない」

私は彼を見た。
その瞳に映っていたのは、被写体ではなく、被写体に恋をした男の目だった。

「…写真、撮らせてほしい。してるところも」

その声に、私はうなずいていた。
断れなかった。
だって、彼の“本気”が、すでにレンズよりも深く私を見抜いていたから。

***

撮影は、関内のホテルではなかった。
石川町の少し先、山手の古いアパートの一室。

午後の光が、レースのカーテン越しに斜めに差し込んでいた。
部屋の奥に、古びた三脚と、露出計が置かれている。

「着ていた服のままでいい。……君の、その生活の匂いごと、写したい」

私はうなずき、シャツのボタンをゆっくり外した。

インナーを脱ぐと、彼は一歩近づいて、シャッターを切った。

「……脱いでいくところだけで、すでに全部がある」

「そんなの、写る?」

「写るよ。俺が写す。妻には、撮れなかったものを」

彼の声が震えていた。
もはや写真なのか、告白なのか、わからなかった。

パンティ一枚のまま、私は壁にもたれ、カメラに目を向けた。
シャッター音が、ふいに止まり、彼はカメラをゆっくり下ろした。

「……もう限界」

そのまま彼が近づき、私を抱きしめた。
体温が、衣擦れを越えて、溶けていく。

シャツを脱ぎ捨て、彼が私の肩に顔を埋めた。

「写真に残すだけじゃ、足りない。記録じゃなくて、記憶にしたい」

ベッドに押し倒され、すでに私は濡れていた。
まるで、レンズ越しに覗かれた時間そのものが、快楽に変換されていた。

「撮るための逢瀬じゃなくて、逢うための撮影だったんだ」

彼が奥まで沈み込み、ゆっくりと腰を動かすたびに、シャッターの残響が耳の奥でよみがえった。
まるで私自身が、まだ露出計の向こうに立っているようだった。

「君の体の陰影、妻よりも、ずっと……」

その言葉の途中、私は唇で彼の言葉を塞いだ。

求められる女として、写される私。
記録されるふたりの愛。
それが嘘でも演出でもないことを、私たちだけが知っていた。

***

帰り道、彼がぽつりと言った。

「俺、たぶん雑誌に原稿を出したら、編集部に残れないかもしれない。……あれはもう、取材じゃなくて、告白だから」

私は彼の腕に自分の腕を絡めた。

「いいじゃない。恋をした編集者と、誌面に残った女の話。それも、悪くないわよ」

夕暮れの山手の坂道、私たちの影が、長く地面に伸びていた。

つづく

作者紹介

奈良あひる 渋谷の会社員

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