第3話:裏口から入る恋
男と会うのは、もう七度目だった。
逢瀬のたびに同じホテルの、同じ部屋。
伊勢佐木町の508号室は、私たちにとって、便利で、そして都合のいい“仮定の生活”だった。
「……妻ね、このあいだ旅館で“その男”と一緒に泊まったらしい」
ベッドに横たわりながら、彼がぽつりと言った。
クーラーの風が、私の鎖骨の下を冷たく撫でていた。
「その男って、奥さんが企画で引っかけた……?」
「そう。横浜の港南台で知り合ったって言ってた。たまたま、雑誌棚の前で会ったらしくて。仕込みなんじゃないの?って笑いとばしたんだけど……」
彼は口をつぐんだ。
「なにかあったの?」
「……帰ってきてから、あいつ、妙に綺麗になってたんだ。髪、切って。爪も真っ赤に塗ってさ」
彼の喉仏が、大きく上下した。
「しかもその男、妻にのめり込んでるらしくて。“次はもっと遠くへ行こう”とか、“一緒に暮らしたい”って言ってるみたい」
「……雑誌の企画なのに?」
「そう。あいつ、自分で仕掛けた火なのに、火遊びじゃ済まなくなってきてる」
私はゆっくりと体を起こして、シーツを巻いた。
「奥さん、どうするつもりなんだろう」
「わからない。でも、“自分の心と体を操れなくなるとは思ってなかった”って、言ってた」
その言葉に、私は奇妙な同情を覚えた。
この逢瀬を始めたとき、彼の妻は“記録者”で、私はただの“観察対象”だったはずだった。
けれど今や、彼女もまた、恋の実験に飲み込まれようとしている。
彼は黙って、私の背中に触れた。
何も求めない、ただ触れていたいだけの手だった。
「……君に会うのが、俺の本音になってきてる」
その呟きが、なぜかとても重たく響いた。
「それって、自分で仕掛けたトラップに自分が落ちてるだけじゃない」私は笑った。
「でも君は? 私は、どうなの?」
その問いに、私は即答できなかった。
彼の手が、私の指に絡んだ。
「わたしも……同じ。最初はただ、日常から抜け出したくて会ってた。だけど、今は……」
「今は?」
「あなたがどこかに消える夢を、たまに見るの。目が覚めると、妙に胸が冷たい」
彼は何も言わなかった。
ただ、私の額に唇を落とし、そのまま長く、離れなかった。
***
508号室の窓から、山下公園の灯が遠くに見えた。
夜が深くなるたびに、ホテルの廊下は静まり返る。
この部屋にいる間だけは、私たちはまだ嘘の中で生きていられる。
けれど、向こう側の物語も、確実に熱を帯びていた。
彼の妻が、誰かと本気で恋に落ちてしまったら。
彼が私を、「選択」として求めてきたら。
企画で始まった恋は現実になる。
そのとき、私たちは、どのドアから日常に戻るのだろう。
正面からか、それとも裏口からか。
つづく
作者紹介
奈良あひる 1990年生まれ 渋谷の会社員