=青春プチロマン小説=ありそうでなさそうで、それでも起きそうなロマンスをお届けする短篇小説。きっとどこかで起きている。
第1話
土曜の昼下がり、私たち夫婦は久しぶりに、横浜の大型ショッピングモールへ出かけた。
夫はプラモデルが趣味で、休日になると決まって工具や塗料を買いに行く。
あの人にとっては、あの時間がちょっとした「少年時代の再訪」なのだろう。
「じゃあ、俺は30分だけ模型売り場ね」
「うん。私は適当にブラブラしてる」
私も慣れたもので、夫が棚の前で塗料の瓶を並べて見つめる姿を遠くから眺めるのにも飽きていた。
それよりも私は、無印良品の台所用品や、フレグランス売り場の香りの方が好きだった。
その日も、生活雑貨売り場を歩いていた。
ふと、肩に軽く何かが触れた。振り向くと、男性が立っていた。
「すみません、通りづらくて」
「いえ、大丈夫です」
その人は、少し笑って頭を下げた。
四十代後半か五十手前。紺のシャツにベージュのパンツ、手には文庫本が一冊。
目立たない人なのに、不思議と、目が離せなかった。
「……あの、もし違ってたら失礼ですけど、湘南の図書館にいらっしゃったこと、ありませんか?」
驚いた。確かに、数か月前、あのあたりの図書館で何度か本を借りた。
誰とも話さずにいたつもりだったけれど。
「ええ、よく覚えてらっしゃいますね」
「少し前にお見かけして、それだけなんですけど。印象に残る方だったので」
それから、なぜか自然に言葉を交わした。
夫がいるのに、と思いながらも、私の中のどこかが、ゆっくりと動いていた。
***
「このあと、お茶でもどうですか?」
「……はい。でも、少しだけ」
モール内の喫茶店で、私たちは窓際の席に座った。
夫はまだプラモデル売り場にいるだろう。
スマホの通知に、「もう少し時間かかりそう」とのメッセージが来ていた。
男は、雑誌の編集をしていると言った。
話し方は穏やかで、けれどどこか、言葉の奥に人の心を測るような温度があった。
あの人の魅力は、派手さや押しの強さとは違った。
言葉を選ぶような静けさと、そのくせ目だけは、女の輪郭をなぞるように鋭い。
少しだけ手の甲に触れたとき、薄くて大きな骨ばった指に、背中がぞくりとした。
本能の底のほうが、音もなく疼いた。
なにかを試されているようで、それが心地よかった。
「このあと、ちょっとだけ歩きませんか?
……ひとがたくさんいるところだと、ちゃんとあなたの顔が見えない気がするんです」
その誘い方が、妙に静かで――断る理由が浮かばなかった。
別れ際、彼が名刺の裏に、電話番号をメモして渡してきた。
「これ、よければ。もちろん、捨ててくれても構いません」
私は受け取るふりをして、バッグに入れた。
その夜、夫が寝たあと、何度もそれを見つめた。