白い傘 おまけ1 奈良あひる

短篇小説
短篇小説

真弓の場合

彼女は言葉を飲み込んだまま、ソファに腰を下ろした。
あの子の癖。負けるとき、声が消える。
それがわかるのも、長いつきあいだからだ。

水嶋は鈍い男だけど、女の湿りには正直だ。
ふたりの視線の間を、グラスを傾けながら読み取っていた。
そして、すぐに彼女に手を伸ばした。

……でも、そのとき私は、立ち上がって彼女のブラウスに手をかけた。
水嶋よりも先に、彼女の身体に触れたかった。

「ねえ、怒ってる?」
彼女は何も言わなかった。
そう、それでいいの。
言葉より、体で応える方がずっと簡単。
身体がひくりと震える。
まだ、残ってる。あの男の味が。

「こっち、交代」
私は水嶋に言って、彼女の背後へ回った。

水嶋が彼女をだいているあいだ、私は前から彼女の頬を撫で、唇を吸った。
不思議だった。
憎いはずの女を、こんなふうにしているなんて。

「どっちが好き?」
思わず口にした。

彼女は目を潤ませたまま、
「わかんない」とつぶやいた。

わからせるつもりなんてなかった。
わからないまま、苦しんでほしかった。
私と寝ていた男が、いま、私と一緒に彼女と愛し合っている。
この不均衡こそ、私が望んでいたことだった。

水嶋は最後、彼女だった。
私はそれを見て、安堵した。

私じゃなくてよかった。
私は、その役を降りていた。
彼女はまだ、抗えない場所にいる。

その夜のあと、私は水嶋には会っていない。
彼女からも連絡はない。
でも、それでいい。

あれは、「私の勝ち方」だった。

ベッドの上で心を開かせ、
愛でも恋でもないやり方で、
あの子の無言を引きずり出した。

夜、ふと鏡を見ると、
唇の下に小さな赤い跡が残っていた。

あの子の歯だ。
水嶋じゃない。

男と共有した夜だったのに、
記憶に残っているのは、
あの子の体温と、喉の奥の湿りだった。

女って、変な生き物ね。
奪うつもりが、
なぜか、少しだけ重なってしまう。

それでも私は、今日もネイルを塗り、
紅をさす。

負ける気はない。
たとえ、もう誰も奪わなくても。

おしまい

別パターン

真弓は、言葉を飲み込んだまま静かにソファに座った。
あの子のいつもの癖。負けたとき、声がどこかへ消えてしまう。
それを知っているのは、長く過ごしてきたからだ。

水嶋は鈍感かもしれない。でも、私は彼が察していることも分かっていた。
視線や間合い、氷を溶かすような沈黙の中で、状況を読み取っていることに。

その瞬間、私は立ち上がって、彼女の隣にそっと寄り添った。
水嶋よりも先に、彼女の存在に触れることを選んだ。

「怒ってる?」
彼女は答えなかった。ただ、目を閉じたまま、静かに心を開いてくれた。
言葉よりも、身体の反応の方が素直だった。

その先に続くのは、言葉では言い表せない衝動と、見せつけるような関係の揺らぎだった。
私たちの間に生まれた曖昧な優越感と、誰にも言えない嵐のような感情。

「こっちも、お願い」
私は水嶋にそう告げ、彼女の後ろへ回った。
そこで、優しく頬に触れ、ざわめく思いを静かに確かめる。

「どちらが好き?」
思わず漏らした問いに、彼女は目を潤ませながらも、けれど、答えられないとだけつぶやいた。

苦しめるつもりはなかった。ただ、選べない彼女の心の揺らぎを感じたかった。
私と過ごした男の影よりも、今はこの空気、この瞬間が、すべてだった。

――その夜を境に、水嶋とも、あの子とも、連絡は取らなくなった。
それでも、私はよかったと思っている。

あれは、私なりの「勝ち方」だったのかもしれない。
ベッドの上の記憶だけじゃない。言葉より、ずっと深く刻まれた感覚のすべてを。

夜、鏡の前に立った私は唇の下の小さな痕に気づいた。
あの子の存在の証、忘れられない印だった。

――女って、不思議な生き物ね。
奪うつもりが、いつの間にか、少しだけ重なってしまう。
それでも私は今日も、自分の爪に色をのせ、口元に紅を引いて、
負ける気はしない。

たとえ、もう誰も奪わなくても――。

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