銀座の小さなギャラリーは、夕方の雨音に包まれていた。友人の真弓の代わりに足を運んだだけのはずが、水嶋の姿を見つけた瞬間、胸の奥が不意に波立った。彼は相変わらず穏やかで、それでいて何かを抱え込んでいるような眼差しをしていた。
「久しぶりですね」
そう声を掛けられ、自然と笑みがこぼれる。どちらからともなく並んで歩き出すと、夜の銀座は雨に濡れて一層きらめいていた。
古いホテルのバーに誘われたのは、その流れの延長だった。カウンターの奥で氷を砕く音、低く流れるジャズ。互いにグラスを傾けながら、近況を語り合う。
「真弓さんは、変わらず忙しいですか」
「ええ。だから、今日は代理なんです」
そんなやりとりの合間にも、不思議な静けさが漂った。言葉よりも沈黙の方が、ふたりの距離を近づけていく。
外の雨はさらに強まっていた。
「傘をお持ちですか」
彼に問われ、私は首を振った。白い傘を持っていたはずなのに、あの日の急ぎ足の中で失くしてしまっていた。
「では、少し雨宿りしていきませんか」
その言葉に導かれるように、私は彼と並んでエレベーターに乗った。
部屋に入ると、窓を打つ雨が一層激しく響いていた。テーブルの上には小さなランプの明かりだけが灯り、影が揺れている。互いに視線を合わせると、言葉は要らなかった。
長い時間を経て再びめぐり逢ったふたりの想いは、抑えていた堰を切るように溢れ出した。ただ寄り添うことが、こんなにも切なく、そして温かいのだと初めて知った夜だった。
翌朝、雨はすっかり上がっていた。窓の外には澄んだ空が広がり、昨夜の出来事が夢のように感じられる。私は水嶋に「ありがとう」とだけ告げて、部屋を後にした。
──それから季節は巡った。
夏の終わり、再び彼に会うことになった。あの日と同じように、理由は曖昧で、心のどこかでは逢うべきではないと分かっていた。それでも足は自然と向かってしまう。
「また、来てくれたんですね」
彼の声は、懐かしさと諦めの入り混じった響きを帯びていた。
その夜もふたりは、言葉少なに時を過ごした。窓の外には秋の雨。白い傘はもう手元になかったが、彼の傍にいることで不思議と心は満たされていた。
しかし、どこかで悟っていた。これが最後になる、と。
別れを告げる代わりに、私はただ微笑み、彼の視線を胸に焼き付けた。
雨が上がれば、また日常へ戻らなければならない。けれど、この夜を抱えて生きていける気がした。
ホテルを出ると、舗道には水たまりがきらめいていた。行き交う人々の傘の群れの中で、私はもう白い傘を探すことはしなかった。
心の中に残ったのは、ふたりで過ごした夜の静けさと、雨音の余韻だけだった。
つづく