
田中屋の


田中屋のシティスナップ「下北沢の女」

下北沢スナップ 撮影/田中宏明
連続小説「女も三年目なら」第3話 作/田中宏明
その夜、浩一は眠れなかった。
時計の針が進むたび、真紀の言葉が耳の奥で反響した。
――「別れるか、私が他の男と出会うのを見るか」
冗談ではない。だが、本気の怒りとも違った。
あの静けさは、決意を秘めた人の声だった。
翌日の夕方、浩一が帰宅すると、部屋の明かりがひとつだけ灯っていた。
テーブルの上にはワインのボトルとグラスが二つ。
真紀は白いブラウスに淡い口紅をつけて、ゆっくりとグラスを磨いていた。
「来る人がいるの?」
浩一の声は、自分でも驚くほど低かった。
「ええ。仕事で知り合った人。
あなたに“見る”覚悟があるなら、どうぞいて」
彼女は淡々としていた。
挑発でも復讐でもない。
ただ、自分の心の行き場を探す人の顔だった。
玄関のチャイムが鳴った。
浩一の喉が小さく鳴る。
真紀が静かに立ち上がり、扉を開ける。
背の高い男が立っていた。
優しげな笑みを浮かべながら、「こんばんは」と言う。
真紀は軽く会釈をし、男を招き入れた。
浩一はその場に立ち尽くした。
男が靴を脱ぎ、部屋に入るたび、音が心臓の鼓動みたいに響く。
「紹介するわ。職場の人」
「どうも」
男は丁寧に頭を下げた。
浩一は頷くだけだった。
言葉が出ない。
自分が選んだ「見る」という道が、今まさに形を持ちはじめている。
真紀は、グラスにワインを注いだ。
赤い液体が光を受けて揺れる。
その揺れが、まるで彼女の心そのもののように見えた。
笑い声がした。
軽い世間話。
浩一はソファに沈み込み、掌の汗を拭った。
――これは罰なのか、それとも試練なのか。
真紀が、男の方へ少し身を寄せた。
髪が肩からこぼれ、淡い香りが部屋を満たす。
それだけで浩一の呼吸は乱れた。
何も起きてはいない。
けれど、何かがもう戻れないところまで来ているのがわかった。
真紀は一瞬、浩一を見た。
その瞳の奥に、怒りでも悲しみでもない、奇妙な静けさがあった。
まるで――許すために壊そうとしている人の目だった。
浩一は立ち上がった。
「やめてくれ」と言いたかったのに、声にならない。
ただ、ワインの香りと、二人の距離と、夜の湿った空気が、
彼の心をゆっくりと締めつけていった。
――その夜、何があったのか。
真紀は語らず、浩一も訊かなかった。
翌朝、テーブルの上には空のグラスが二つ並び、
真紀の置き手紙には、ただ一行だけ書かれていた。
「あなたは、やっと私の気持ちを見たと思う。」
外の光がカーテン越しに滲んでいた。
浩一はその光の中で、初めて本当の孤独というものを知った。