横浜ルームナンバー

短篇小説

私は、手元にあったペンを握り直した。

USBで動画を見てからというもの、私は“あの二人の関係”を知るだけでは足りなくなっていた。

もしかすると私は、佳乃という女の中に、夫を見ていたのかもしれない。

私は、静かに書き始めた。


【私 → 佳乃】

拝復

ご丁寧に、あの記録を届けてくださり、ありがとうございました。
動画を見終えて、しばらく椅子から立てませんでした。
画面の中の動きや表情が、とても豊かに映りました。

夫があなたに触れる時の手つき。
その角度や深さを、私は見たことがありませんでした。

正直に申し上げて、少し戸惑っています。
夫があれほどまでに「別の人間」としてそこにいるのを見ると、
私はいつから彼を“安全な人”としてしか見ていなかったのかと、胸がつかえました。

もし差し支えなければ、お訊ねしたいことがあります。

あなたにとって、夫はどういう存在でしたか。
あの夜の関係は、あくまで企画の一部だったのでしょうか。
それとも、何かもっと、別の感情が芽生えたのでしょうか。

私はまだ、あの映像の中の二人が、「誰」で「なに」をしていたのか、うまく整理ができていません。

もし、あなたのお言葉で語っていただけるなら、
私は、それを聞いてみたいのです。

敬具


手紙を投函してから四日後、封筒が届いた。
あの人らしい、無地のアイボリー色だった。


【佳乃 → 私】

拝復

ご返信、ありがとうございました。
そして、正直なお気持ちを伝えてくださって、私は少し救われた思いがいたしました。

あの夜のことを、改めて自分の中で言葉にするのは、正直難しいです。
けれど、今だからこそ、少し正直に書いてみようと思います。

あなたのご主人は、とても繊細な方です。
繊細でありながら、触れるときだけは、少し大胆です。

私が何も言わなくても、どこをどう撫でたら私が震えるか、
どういうリズムで腰を動かせば、私の中が吸い付くか――
そういう“身体の言語”を、彼は静かに読み取る人でした。

あれは、企画の一環として始まりました。
でも、二度目に会ったとき、私はもう台本のことを忘れていました。

彼の指先がシャツの裾から入ってくる瞬間、
私の身体は、演技をしている女のそれではありませんでした。

あの夜、終わったあと、彼はしばらく黙って私の肩に額をつけていました。
そのときの沈黙が、今も胸の奥に残っています。

これは“恋”なのかと訊かれると、わかりません。
“愛”といえる自信もありません。

でも確かに、私はあのとき、
「自分の女の部分が、久しぶりに呼吸をした」と感じていました。

ご主人は、そういう人です。
誰かの中の“眠っているもの”を、起こすような人です。

それが、あなたのご主人だったという事実が、
皮肉でも、救いでもあるのか、私にもまだわかりません。

佳乃


その手紙を読んだあと、私はカップの中の紅茶を一口すすった。
冷めきっていて、何の味もしなかった。

夫は、今夜も黙ってプラモデルの接着面をヤスリがけしている。

その横顔を見て、私は胸がきゅっと縮むような感覚に襲われた。

あの手が、佳乃の身体をどう撫でたか。
あの眼差しが、何を見つめていたのか。

思い浮かべるたび、私は「なぜそれが私ではなかったのか」と問い続ける。

これは嫉妬か、愛か、それとも……女としての敗北感なのか。

自分が何に泣きそうなのかすら、もう分からなかった。

ただひとつ、分かることがあるとすれば――
私はまだ、夫を「誰かに選ばれた男」として、見てしまっているということだった。

***

呼び出されたのは、金曜日の夕方だった。
夫は定時で帰れず、息子は合宿で留守。
曇り空のせいか、夕方の光は濁っていた。

「住まいとは別に、一つだけ借りている場所があるんです」
と健介は言った。
「一度だけ、来てみませんか。話だけでいい」

場所は、みなとみらいのはずれ、北仲通の裏手だった。
夜の帳が降りるころ、私はタクシーを降り、指定されたマンションの一室に入った。

鍵はすでに開いていて、部屋にはオレンジ色のスタンドライトと、グラスに半分ほどの白ワイン。
健介は、窓際で海を見ていた。

「奥さんには?」

「話してません。でも、知られても平気です。彼女は、そういう人ですから」

ワインを口に含むと、乾いた喉がふっとほどけた。
健介の視線が私の指先に注がれているのがわかった。

「きれいな手ですね。……人差し指、少しだけ、震えてます」

「緊張してるのかもしれません」

「じゃあ、そのまま震えさせていてください。少しだけ、触ってもいいですか」

それは“誘い”というより、“確認”のような言葉だった。

私は頷いた。

ベッドに導かれたとき、私の中ではすでに“事実”として受け入れていた。
肌と肌が触れ合うまでの間に、愛情も倫理も挟まる余地はなかった。

健介は、夫とはまるで違うペースで、私に触れた。
乱暴ではないが、まっすぐで、迷いがなかった。

「ここ、感じますか」

「……ええ」

「じゃあ、もっと感じてください」

衣擦れの音、ソファの軋み。
指先が腹の下をなぞり、唇が胸に落ちてきたとき、
私は声を漏らしそうになるのを、背中のシーツで押し殺した。

夫とは違う場所で、違うやり方で。
それでも同じように、私は女としてそこに存在していた。

何度目かの昂ぶりのあと、私の胸に頬を寄せたまま、健介がこう言った。

「もう一人、来てもいいですか?」

「……え?」

インターホンが鳴った。
数分後、ドアの向こうから、佳乃が現れた。

スプリングコートに、ベージュの細身のパンツ。
頬には少しだけ紅が差していた。

「こんばんは。突然ごめんなさい」

私が起き上がろうとすると、佳乃はゆっくりと近づいてきて、ベッドの端に腰を下ろした。

「わたし、ほんとはずっと……あなたに興味があったんです」

「私に?」

「ええ。あなたがどんなふうに笑うのか、
どんなふうに怒るのか、どうしてあんなふうに、女の顔になるのか……」

言いながら、佳乃は私の髪の一房に指をからめた。
香水のような微かな匂いが、息の間に混ざる。

健介はベッドの反対側で、静かにこちらを見ていた。
それは、夫婦のどちらとも違う、まったく別の男の顔だった。

「今日は……あなたを見たくて来ました。
触れるかどうかは、今、決めたい」

その瞬間、部屋の空気がやわらかく波打った。
熱でも、湿気でもない、“起きそうなこと”の体温だけが、視界に満ちた。

私は何も言わなかった。
けれど、佳乃の手が頬に触れたとき、
私は目を閉じた。

そのあとのことを、
覚えているのは指先の熱と、
唇に触れた、誰かの呼吸だけだった。

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