横浜ルームナンバー

短篇小説

その夜、夫が「風呂、先入ってくる」と言ったあと、私は下着を選んでいた。
別に新しいものではなかったが、柔らかなワインレッドのシルクを肌にあてると、自分でも驚くほど胸が高鳴っていた。

夫が浴室から出てくると、髪の毛が少し湿っていて、頬が赤かった。

「……寝る?」

そう訊く声が、いつもより低かった。

「うん」

寝室の灯りを落とすと、夫は私の背中にそっと手を添えた。
手のひらの温度が、あの夜以来のものだった。

唇が首すじをなぞり、手が下腹部をやさしく撫でる。
驚いたのは、夫の動きが、かつてよりもずっと丁寧で、遠慮がなくなっていたことだった。

「……どうしたの」

と問いかける私の言葉の途中、指先が秘部を探り、すでにじっとりと濡れていた場所に触れた。

「どうしたって?」

夫が微笑む。
そのまま、息を吐きながら膣口を撫で、じっくりと入れてきた。

「ん……っ」

腰をゆっくり動かすたびに、奥まで届いてくる感触が変わっていた。
ピストンの深さ、リズム、角度――
まるで、“教わってきた”ような動きだった。

「まって、ちょっと、イきそう……っ」

夫は止めなかった。
中でびくんと震え、私が一度目を閉じて果てると、そのまま唇を胸に這わせ、再び律動を始めた。

「また……あ、だめ、また……っ」

二度、三度。
夫のペースは変わらなかった。
耳元で「大丈夫、まだいける」と囁かれ、私はベッドのシーツを握りしめて声を漏らした。

ああ、この男は――
もう、別の誰かと身体を交わした男なのだと思った。
その女が、佳乃だった。

***

夜が明けて、台所にいた私は、またあの水色の封筒を開き直した。
裏には佳乃の住所が書かれていた。
手紙を書くかどうか、ずっと迷っていたが、もう答えは出ていた。

引き出しの中から便箋を取り出し、ペンを握った。


拝復
お手紙、拝読しました。
ご丁寧なご報告、ありがとうございました。

夫とあなたがどのような時間を過ごされたか、私はきっと想像以上に冷静に受け止めています。
あの夜、帰宅した夫の変化は、身体がいちばん正直に語っていました。

正直に言えば、少し羨ましくもありました。
私にはできなかった“再生”を、あなたが果たしてくれたように思えたからです。

あなたと彼が、どこまで関係を深めていくのか、それは私の関与すべきことではないと思います。ふたりが望むところまですすんでいいっていただきたいと思います。
けれど、ひとつだけ、少しだけ、お願いがあります。

もし可能であれば――
写真や、動画のような形で、
あなたと彼の時間を、ほんの断片でも、見せていただけないでしょうか。

他意はありません。
ただ、あなたが選ばれた理由と、その夜の空気に、少し触れてみたいと思ったのです。

無理のない範囲で、お願いいたします。

敬具


便箋を畳み、封筒に入れ、切手を貼った。

夫が昼寝をしている寝室の横を通って、私は郵便受けにその手紙を投函した。

返事が来るかどうかは、わからない。
けれど、たぶん私はもう――
「見届ける」側にいる女になったのだと思う。

***

後日ポストにそれは、黒い小さな封筒で届いていた。
差出人の名前も、裏書きもなかったけれど、封を切る前から、私は中身が何かを察していた。

中には、手のひらにすっぽり収まるUSBメモリと、一枚の小さな紙片が入っていた。

ご依頼の件です。
短い映像ですが、ご主人と私の“確認”が映っております。
編集などしておりません。
ご自由に。

それだけ。
サインもない。筆跡も、以前とは違う力加減で書かれていた。

私は躊躇いながらも、リビングのノートパソコンにメモリを差し込んだ。
フォルダの中には、ひとつだけmp4のファイルがあった。
タイトルは「2025_6_20」。

再生ボタンを押すと、カーテン越しの薄い昼光と、やわらかい寝具の白が映し出された。

映像の冒頭、佳乃は部屋のカーテンを引いたあと、ベッド脇の椅子に座っていた。
夫が映るのはその直後だった。

白いシャツを着ていて、やけに襟がきちんとしていた。
彼は軽く咳払いしてから、口元をゆるめた。

「……緊張してる?」

佳乃は笑って首を振る。

「あなたのほうこそ。まるで、初めてのデートみたい」

「初めて、みたいだよ」

佳乃が立ち上がり、夫の前に立った。

「脱がせて」

夫は一瞬たじろいだようだったが、佳乃の腰に手を添え、スカートのホックを外した。
布が滑り落ち、ストッキング越しの太ももがあらわになる。

「ね、シャツのボタン……最後まで外さないで」

「どうして?」

「そのままのあなたに、触れていたいから」

そう言って佳乃は、夫の胸元に額を寄せた。
肌に触れたのは、唇のようにも、まぶたのようにも見えた。

キスは長かった。
舌をからめるでも、音を立てるでもない、重ねるような口づけだった。
その途中、夫の手が佳乃のブラジャーのカップに差し入れられ、指で乳房のふくらみを確かめている。

「ん……その感じ、覚えてたの?」

「覚えてる。忘れられるわけ、ないだろ」

カメラはやや角度を変え、ベッドに移動する二人を映していた。

佳乃がうつぶせになると、夫は彼女の背中にキスを落としながら、ホックを片手で外した。
乳房が重力で流れ、柔らかさを見せる。

「もう……中も濡れてる」

「わかるの?」

「触らなくても、わかる」

彼はショーツの上から佳乃のあいだをなぞる。
佳乃が、シーツをつかむ指に力を込めた。

そして、次の瞬間。
夫が、彼女の脚を抱え込むようにして、ゆっくりと身体を重ねる。

「入れるよ」

「……うん。ちゃんと、見てて」

挿入の瞬間、佳乃の瞼が閉じられた。
呼吸が止まったように見えて、次の吐息が漏れたとき、彼女の脚が夫の腰に絡む。

「深い……いつもより」

「それは、君が……受け入れてくれてるからだよ」

律動はゆっくりと続き、途中、夫のシャツが汗で肌に張りついていた。
そのまま、佳乃が腰を持ち上げて、角度を合わせる。
彼はそこで少しだけ息を荒げた。

「……ねぇ、見て。わたし、どう見えてる?」

「綺麗だよ。ずっと……綺麗だ」

「ほんとに?」

「ほんと。……あのときより、ずっと」

佳乃が小さく泣くような声を漏らし、そのまま夫の首にしがみついた。

「出して、いいよ。……ちゃんと、欲しい」

夫が最後に小さく呻き、深く突き刺すようにして、動きを止めた。

画面のなかで、二人はしばらく動かなかった。
呼吸だけが見えた。
静かな、静かな時間だった。

そのあと、佳乃がタオルを取って、夫の額の汗をぬぐう。
そして、カメラがフェードアウトする直前。

夫が、小さな声で言った。

「……これで、終わりにする?」

佳乃は、黙ったまま首を横に振った。


私はノートパソコンの前に座ったまま、何も動けずにいた。

私はそれを、最後まで見届けた。
動画の終わりには、ただ布団のなかで寄り添う二人の姿が映っていた。

怒りでも、悲しみでもない、別の感情がじわじわと身体の内側を満たしていた。

男が変わったこと。
女が変わったこと。
そして私が、何をまだ手にしていないのかを、思い知らされるような気がした。

あのふたりは、もしかすると、本当に「確かめていた」のかもしれない。
壊すためでも、裏切るためでもなく、“今の自分が、誰とどう交わるべきか”という問いに、
身体で答えようとしていた。

私は指先で、自分の鎖骨をなぞった。
カメラのなかで佳乃が触れていたように。
そしてそっと目を閉じ、呼吸を整えた。
でも、もう“いつも”ではない午後として。

私はメモリを抜き、机の上にそっと置いた。
怒りはなかった。
ただ、静かな喪失と、それに似た奇妙な興奮が、身体のなかで揺れていた。

あの体位、あの深さ。
一度だけ、私の中にも、あの動きがあった。
でも、今の夫はもう――私の知らない男だった。

いや、私が気づこうとしなかっただけかもしれない。
それが、自分のものか、夫が変えたものか、もうわからなかった。

窓の外で、夕暮れの陽が落ちていく。

USBメモリは、まだ机の上に置いたままだった。

つづく

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