プチ官能小説の練習1500サイズ 奈良あひる 

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「茄子の煮びたし」

 「あなた、茄子はお好きでしたよね」

 そう言いながら、まな板の上に紫の茄子を並べた。雨の午後、彼がふいにやってきた。傘を持たず、ワイシャツの肩が濡れている。ドアの隙間から、湿った夏の終わりの匂いが部屋に入り込んだ。

 「ごめん、近くまで来たもんだから」

 口実にもならない言い訳。だけど私たちは、もうずっと前から、言葉の帳尻を合わせるのをやめていた。

 彼とは、会社の資料室で偶然、袖が触れたのが最初だった。小さな紙やすりのような、その感触が妙に頭から離れなかった。二度目は、会議の帰り、地下鉄の駅までの道。手が、また、ほんの少し触れた。

 「偶然って重なるんですね」

 そう言った私に、彼は笑わずに言った。「偶然じゃないかもしれない」

 それからだった。二人で駅のそばの喫茶店に入るようになり、互いの好みや嫌いな季節の話をするようになった。私が一人暮らしだと知ったときの、彼の視線を今も覚えている。深くはないけれど、底の見えない池のような目だった。

 鍋に油を熱し、茄子を素揚げする。じゅっという音が、二人の間の沈黙を少しだけ軽くする。

 彼はソファに座り、何も言わずに私の背中を見ている。視線が肌に触れるような錯覚。私はあえてそれを無視して、煮びたしのだしを準備した。

 「まだ早いですね。冷まして、味を染み込ませないと」

 「急いでないよ」

 その言葉が、喉の奥で震えた。急がなくていいと言われたことが、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。

 夜になると、雨音が少し強くなった。蝉の声も、もう聞こえない。彼は焼酎をちびちび飲み、私は冷やした煮びたしをそっと皿に盛る。

 「ほんと、うまいな……」

 彼が言った瞬間、私はようやく椅子に腰を下ろした。けれど、箸には手をつけず、ただ、彼の顔を見ていた。

 「……ずるいですね」

 ぽつんと、こぼれた言葉に自分で驚いた。彼も驚いたように顔を上げた。

 「なにが?」

 「こうやって、なんとなく来て、なんとなく居て……わたしだけ、待ってるみたいじゃないですか」

 そのとき、彼の目がゆっくり動いた。皿から、私の指先へ。指先から、腕、肩、鎖骨へと。

 「……待たせたのは、俺のほうかもしれない」

 彼は立ち上がると、私の手を取った。いつもの不器用な動作で、けれど確かな力で。私は身をまかせた。抵抗する理由も、意味も、もうとうにどこかに置き忘れていた。

 シャツのボタンをはずす音が、雨音に混じる。襟元に触れた指先は熱く、頬に落ちたひとしずくの雨がひやりとした。彼の唇が、肩に、そして胸元に触れたとき、私はほんの少しだけ目を閉じた。

 音を立てぬよう、カーテンが揺れる。夏の名残の風が、肌をくすぐる。

 長い時間をかけて近づいた距離を、たった数分で縮めていくような、そんな感覚。言葉は、もはや意味をなさない。ただ指先が、唇が、背中が、互いを確かめ合う。

 彼の背中に腕をまわすと、その身体が少しだけ震えた。男の硬さと、寂しさがまじった匂いが胸の奥に沁みてくる。

 すべてが終わったあと、彼は何も言わずに私の髪を撫でた。

 朝方、目が覚めると、彼はいなかった。まるで、最初から居なかったかのように。

 キッチンに、空の皿と、ペンで書かれたメモ。「今度は俺が、煮る番だな」

 笑っていいのか、泣いていいのか。私は鍋に残った茄子を、そっとひとつ口に運んだ。味はもう、変わっていた。

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