第2話「指輪の記憶」
「奥さんなんですね」
彼がそう言ったのは、
さっき私の左手がふと胸元を押さえたとき、
薬指の跡がくっきり残っていたからだった。
指輪を外す癖は、いつから身についたのだろう。
けれど、外した痕跡までは、
隠せない。
東京に戻ってから三日後の夜、
夫は珍しくワインを開けた。
「たまにはいいよな、こういうのも」
そう言って、ソファでグラスを傾ける。
TVの音だけが部屋に流れていた。
ワインが半分ほど減ったころ、
彼が肩を抱いてきた。
「おまえさ、最近、きれいになった」
「……そう?」
「うん、なんか、よく眠れてそうな顔してる」
その言葉に、心がひやりとした。
寝室の灯りは、間接照明だけ。
夫は不器用にブラウスのボタンを外し、
「久しぶりだな」と笑った。
温いお風呂に浸かっているような触れ方だった。
動きはどこか遠慮がちで、浅く、揺れるだけだった。
それでも、わざと声を立ててみせた。
夫が嬉しそうに目を細めるのを見て、
演技が必要だと思った。
彼の身体が重なってきたとき、
私は目を閉じて、
あの海辺の旅館を思い出した。
夫のものは、細くて、
するりと入ったが、
奥まで届く気配はなかった。
腰を打つリズムも穏やかで、
それは、やさしさというより、習慣だった。
「気持ちいい?」
「……うん」
その「うん」は、どこまで本当だったろう。
波は、来なかった。
ただ、浅く静かに揺れて、終わった。
シャワーを浴びて戻ると、
夫はすでに寝息を立てていた。
私は、タオルで髪を拭きながら、
鏡に映る自分の身体を見た。
あの写真家に、触れられ脚の裏まで熱を伝えられた夜とは、
まるで違う。
私は自分の太ももに触れた。
じっとりとした記憶が、そこにはまだ残っている気がした。
夫の動きは、
“私を壊さないための動き”だった。
写真家のそれは、
“私の奥に何があるかを暴く動き”だった。
「また、来ませんか?」
そう言われたのは、旅館を出るときだった。
私は振り返らずに、
ただ、小さく笑っただけだった。
だけど、今、深夜2時の寝室で、
スマホの検索履歴に「海沿い 写真展」と打ち込んでいる自分がいる。
あの男は、フィルムに何を残していたのか。
私の身体のどこを切り取ったのか。
確かめるのが怖くて、
でも、見たくてたまらない。
身体は、もう正直すぎて、
演技では濡れなくなっていた。
夫に抱かれながら、
他の男の舌を思い出してしまうような女になってしまった。
だけど、それを「裏切り」とは思わなかった。
女はいつも、心ではなく身体から崩れる。
その崩れた跡を、
誰かがまた押し広げていく。
次の週末、ひとりで出かけたいと言った。
指輪は外さない。
その痕が、あの男のまなざしを呼び寄せたことを、
私は知っていたから。
つづく
第3話