「露出計の向こう」
女は、ひとりで海沿いの町を訪れていた。
旦那の出張に便乗して、二泊三日の自由時間。
波の音と海の湿りを感じながら、どこへも属さない時間を味わいたかった。
カフェのガラス越しに彼を見かけたのは、午後の二時すぎだった。
黒のTシャツに、肩から古びたカメラ。
その姿に、女はなぜか目を離せなかった。
翌日、港の先の防波堤でまた出会った。
「昨日、カフェにいましたね」
彼がそう声をかけてきた。
柔らかな声音と、無造作な笑顔。
どこか、頼りなくて、危うい。
だからこそ、女は足を止めた。
「よかったら、撮らせてもらえませんか?」
断る理由も、承諾する理由も、曖昧なまま、古い旅館の一室でシャッター音が鳴り始めた。

ブラウスの襟を少しずらして、肩を出したとき、
彼の指が、そっとそこに触れた。
押しつけるでもなく、撫でるでもなく、
ただ確かめるような動き。
女は目を閉じた。
「指、冷たいのね」
「少し緊張してます」
そう言いながら、彼はブラウスのボタンに指をかけた。
女は止めなかった。
この町には、誰もいない。
誰も、私を妻として知らない。
シャッター音のかわりに、
彼の唇が胸元に触れた。
「撮るの、もういいの?」
「こっちのほうが…惹かれます」
身体が反応した。
何度か波が押し寄せて、
そのたびに肩を震わせた。
ベッドに移動すると、
彼はTシャツを脱ぎ、女の脚を持ち上げた。
女は爪先でシーツを掴み、目を閉じた。
やがて彼が震えながら果て、
女のうえに崩れた。
「奥さん…なんですね」
ベッドで彼がぽつりと言った。
女は答えなかった。
答えないまま、彼の頬に触れた。
「でも…ありがとう」
彼の声は、ひどく遠く感じられた。
女は立ち上がり、ブラウスを羽織った。
手が、微かに震えていた。
旅館の窓の外では、夕方の光が、海を金色に染めていた。
今夜は、東京へ戻る。
だけど明日の朝には、
すべて忘れたふりをして、
また「妻」に戻るのだ。
この身体だけが、
“あの光”を記憶している。
つづく
第2話