第3話 作/奈良あひる

九月の終わり、風が急に軽くなった。
あれほど鳴いていた蝉がいなくなって、駅裏のロータリーは妙に広く感じる。
夏の終わりは、いつも少しだけ取り残された気持ちになる。
私は久しぶりに、あのエスカレーターの前に立っていた。
金属はもう熱くない。
触れると、ひんやりしている。
季節がひとつ、確実に進んだ証拠みたいだった。
最近、彼に会っていなかった。
約束がないというのは、自由だけれど、少し残酷だ。
偶然が起きなければ、それで終わる。
それだけの関係。
それなのに、指先はまだ、彼の体温を覚えている。
動き続ける段差に足を乗せる。
上へ運ばれながら、風がスカートを揺らす。
なんとなく、今日は来る気がした。
理由はない。ただの勘。
中腹で、下から人影が現れる。
見慣れた歩き方。
文庫本。
少し伸びた髪。
胸が、ぎゅっと鳴った。
「久しぶり」
彼が言う。
本当に、それだけ。
なのに、泣きそうになる。
「ほんとに」
声が少し笑ってしまう。
すれ違いざま、自然に手が伸びて、指が触れた。
それだけで、体の奥がほどける。
この人の手の形。
この温度。
頂上で並んで立つ。
秋の空は高くて、青が薄い。
「ちょっと寒いですね」
「うん」
言いながら、彼の腕の中に収まっていた。
夏みたいな勢いはない。
かわりに、静かで深い。
体が、帰る場所を知っているみたいだった。
歩き出す方向は、やっぱり同じ。
古いホテルのネオンが、昼間なのにぼんやり点いている。
部屋に入ると、窓が少し開いていて、風がカーテンを揺らしていた。
冷房はいらない。
やわらかい空気。
隣に座ると、自然に肩が触れた。
言葉は少ない。
けれど沈黙が苦しくない。
同じ景色を見て、同じタイミングで小さく笑う。
それだけで、十分だった。
彼の胸にもたれて目を閉じる。
規則正しい鼓動が、ゆっくり伝わってくる。
エスカレーターの駆動音に少し似ている。
一定で、やさしくて、どこまでも続きそうな音。
その音を聞いているうちに、いつの間にか眠ってしまった。
目が覚めると、カーテンが淡く光っていた。
秋の風が、頬をなでる。
彼の腕がまだ私の肩にかかっている。
ただそれだけで、胸が満ちた。
「夏、終わっちゃいましたね」
「うん」
「なんか、さみしい」
彼は少し考えて、
「でも、また冬が来て、春が来て、またここ通るでしょ」
と言った。
「そしたら、また会うよ」
未来の約束じゃない。
ただの予想。
でも、その曖昧さが、私たちらしかった。
チェックアウトして、またエスカレーターの前に立つ。
何事もなかったみたいに、今日も動いている。
私たちは並んで乗った。
手すりは、少しだけ冷たい。
けれど、隣の彼の手はあたたかい。
この温度だけあれば、たぶん大丈夫だと思った。
どこへ運ばれるのか分からなくても。
止まらない階段みたいに。
私たちも、ただ隣で、同じ速さで上っていけばいい。
風の止まる踊り場で、またきっと、出会える気がした。
本日の献立
朝:野菜味噌汁
昼:Mint弁当
夜:豆腐丼 野菜味噌汁
作者紹介
田中宏明 1980年生まれ 東京都昭島市出身の写真家・放送作家・ラジオバンドマン。
2003年 日本大学文理学部応用数学科 ぎりぎり卒業。下北沢・吉祥寺での売れないバンドマン生活&放送作家として日テレ・フジテレビ・テレビ朝日を出入りする。
現在はピンでラジオと弾き語りでのパフォーマンスをおこなっている。
◆写真家:シティスナップとかるーい読物「井の頭Pastoral」撮影・編集
◆放送作家:ラジオドラマ「湘南サラリーマン女子」「わけありキャバレー」原作・脚本
出演ラジオ 第107回
田中屋のシティスナップ

