田中屋の夕刻日誌 「平和の祭典と大仁田厚スピリッツ」田中宏明(写真家)

夕刻日誌
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平和の祭典というのは、どう意味でそういっているのか、誰が言い出したことなのか知っていますか?

平和の祭典

何のしがらみもなくスポーツができること。
平和の祭典なのだからああしろこうしろというのは、
もはや争いが起きかけていて平和とは言えない。

ひとつのテーマとして考えるとすれば、原爆の日に、オリンピックとして黙とうをするかどうかということである。

ネットやニュースやワイドショーなどでは、黙とうすべきだったとかしてほしかったとか発言が見受けられた。
僕より上の年代の人で、オリンピックは平和の祭典だからそうすべきと言う人もいる。

黙とうすべきと考えるひとにお聞きしたいのは
何のために黙とうするのか。

原爆の日に黙とうをするとしたら、これに関する当事者としてのA国とB国
その2国はオリンピック競技中に何をしてほしいのか。何を想ってほしいのか。それと、それは世界のスポーツイベントとしてのオリンピックと何か関係あるのか。

例えば、黙とうが終わってから、A対Bの決勝戦が行われたとして、Aが勝った場合、Bが勝った場合を思い浮かべてみよう。
それは何かスポーツと関係あるのか。

過去の平和でない状況を、オリンピックは平和の祭典なのだからと持ち込むとしたら、
日本の場合、原爆の日に黙とうなのか。戦争に勝ったことが現代の平和をもたらしているという考え方があったとしたら、その国はそれをオリンピックに持ち込むというのか。
各国過去に不平和の日があるとして、それを皆オリンピックに持ち込むのか。韓国も中国も、あの国やこの国も。

そんなことを考えていたら、オリンピックに出たくないのならでなければいいのでは、という話にならないか。

辞退者が多くなればその分メダルも錆び付くというものだ。

誰がどういう意味をもって平和の祭典という言葉を言ったかは知らないが、もしかしたら誰もそんなこと言ってないかもしれないが、
僕の認識では平和の祭典とは、どんな歴史や・過去や事情っやしがらみやらいろいろあっても実力さえあればオリンピックに出場することができて、何のしがらみもなく、各競技で競い合うことができる、もちろん、口には出さないがそれぞれの環境や私情はある。そこから生まれるスポーツの美しさとエピソードが平和の祭典なのだと認識しています。

過去の不平和を持ち込む発想は僕にはありませんでした。

もし、過去または今の不平和を持ち込むのだとしたら、平和の祭典なので、出場しないでくれという話になってしまう。

ワールドカップだって、五輪だって、戦争中や内戦中の国も出場する。それは、スポーツに罪はなく、その国のスポーツ選手に罪はないからである。
もし、もし彼らの言う平和の祭典なら、戦争中の国はお断りということになる。
しかし、出場できる。なので、恐らく彼らの認識している意味で、平和の祭典という言葉は使っていないと考えられるのであります。

言うならば、戦争や政治・宗教などの話を持ち込まないことが平和の祭典という認識。

昔、大仁田厚は言っていた。
リングに上がったら、誰もが何のしがらみもなく戦える。それがプロレスだ。

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