プチロマン小説「雨の夜に」奈良あひる

短篇小説
短篇小説

=青春プチロマン小説=ありそうでなくて、それでも起きそうなロマンスをお届けする短篇小説。きっとどこかで起きている。 

雨の夜に

あの日のことを、私はいまだに胸の奥で温めている。
 いや、温めるなどという言葉は正しくないのかもしれない。むしろ、冷たく閉じ込めておきたいのに、ふとした拍子に熱を帯びて甦る。そんな記憶である。

 夫の後輩の村井が、我が家に顔を出したのは、梅雨の真ん中の土曜の夜だった。
 仕事の打ち合わせだと夫は言い、私は軽い夕食を用意した。麻婆豆腐と春巻き、そして冷たいビール。気取ったものではないが、三人で囲めばそれなりに華やいだ。

 村井は三十代前半、夫より十も若い。生真面目そうな眼鏡の奥に、どこか不器用な誠実さが見える。夫の話によれば、仕事は几帳面で、上司からの信頼も厚いという。
 私は初対面ではなかったが、夫のいる場で軽く挨拶を交わす程度だった。改めて目を向けると、思っていた以上に背が高く、笑うと頬に小さなくぼみができる。その笑顔を見て、私はなぜか視線を逸らした。

 その夜、夫は電話で急に呼び出され、出かけることになった。
 「悪い、少し会社に顔を出してくる。すぐ戻るから」
 そう言い残し、慌ただしく靴を履いて出ていった。玄関のドアが閉まったあと、居間に残されたのは私と村井のふたりだけ。

 窓の外では雨が強さを増していた。
 しんと静まりかえった室内に、時計の針と雨音だけが響く。私は思わずキッチンに立ち、急須を手にした。
 「お茶でも淹れましょうか」
 「ありがとうございます」
 村井の声は低く、どこか遠慮がちだった。

 湯気の立つ湯飲みを前に向かい合うと、妙に落ち着かない。夫がいないだけで、部屋の空気が変わる。灯りはさほど明るくなく、薄い影がテーブルに揺れていた。

 「奥さまの料理、本当に美味しかったです」
 村井がそう言った瞬間、私は頬が熱くなるのを感じた。
 普段、夫から「美味しい」と言われても、家事の一部として受け流していたのに。若い男の人に真っ直ぐに褒められると、こんなにも心がざわつくものか。
 「たいしたものじゃありませんよ」
 「いえ、本当に。僕なんか普段はコンビニ弁当ばかりですから」
 苦笑いするその表情が、なぜか胸に沁みた。

 雨脚はさらに強くなり、ガラス戸を叩く。
 「ちょっと降りすぎですね」
 村井が窓に目をやり、私は小さくうなずいた。傘を差しても濡れてしまうだろう。夫が戻るまでの時間が、長くなるかもしれないと思った。

 沈黙を埋めるように、私は棚からレコードを取り出した。古いジャズのアルバム。針を落とすと、柔らかなサックスの音が部屋に流れた。
 「いいですね、こういう音楽」
 村井が眼鏡を外し、少し目を細める。レンズの曇りを拭う仕草に、不意に生活感が漂い、私はその人が急に近しい存在に思えた。

 会話はとりとめもなく続いた。仕事のこと、学生時代のこと、好きな映画や小説のこと。夫とはほとんど交わさないような話題が、するすると糸のように伸びていった。
 気づけば、私は笑い声をあげていた。こんなふうに心から笑ったのは、いつ以来だろうか。
 その笑いが途切れた瞬間、ふたりの間に再び沈黙が落ちた。音楽と雨音だけが流れる。私は目を伏せ、湯飲みに残った茶の底を見つめた。

 その時、村井が小さく息を吸い込む気配がした。
 「奥さま……」
 呼びかけられ、顔を上げると、彼の視線が真っ直ぐに私を射抜いていた。
 そこには礼儀も遠慮もなく、ただ切実な何かが潜んでいる。
 私は息を呑み、心臓が一拍早く動くのを感じた。

 だが、その先の言葉はなかった。
 代わりに、玄関のドアが開く音が響いた。夫が戻ってきたのだ。
 「ただいま」
 濡れた傘を畳む音が現実を引き戻し、私は慌てて立ち上がった。
 「おかえりなさい」
 笑顔を作りながら、心の奥では何かが消えていくのを感じた。

 村井は立ち上がり、丁寧に夫に頭を下げた。
 「お世話になりました。そろそろ失礼します」
 夫が制止する間もなく、彼は傘を広げて夜の雨の中へと消えていった。

 その背中を見送ったあとも、私はしばらく玄関に立ち尽くしていた。
 夫は濡れたジャケットを脱ぎながら、何も気づいていない様子である。
 私は静かに微笑み、再び日常の妻に戻った。

 けれども、雨音の夜に交わしたあの視線と沈黙は、今も胸のどこかで生きている。
 ほんの一歩、踏み出せば越えてしまったかもしれない境界線。その危うさが、私を時折甘く苦しめるのだ。

つづく

作者紹介 

奈良あひる 1990年生まれ 渋谷の会社員 
趣味で体験をいかした青春小説を書いています。応援よろしくお願いします。 

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