「白い傘」
その男と最初に関係を持ったのは、夏の盛りだった。
食器棚に手を伸ばした私の背後に、彼の体温がすっと重なった。
冷房の音と、煮詰まったジャスミン茶の香りが、いやに静かだったのを覚えている。
「暑いね」
背中越しに囁かれたその声に、振り向くこともせず、私はただコップを差し出した。
それが合図だったのだと思う。
私の指先を、彼の手が重ねて、
すぐにリネンのスカートのなかに、手が潜った。
パンツの布越しに感じる男の指は、ずいぶんと迷いがなくて、
私は、まるでそうされることがずっと決まっていたように、腰をずらした。
ソファの上で、彼の舌が私の胸をひとつずつ吸いながら、
湿った音を立てるたびに、部屋の中の時計の針が止まっていくようだった。
彼のものは太く、長かった。
それがゆっくりと、私の中に入ってくるとき、
私は声をあげまいと、クッションに顔を埋めた。
だけど、突きあげるたびに腹の底が応えて、
「あっ」と漏れる声が、押し殺せず唇からこぼれた。
それが、初めてのことだった。
彼の名前は水嶋といった。
年齢は私より五つ上。
妻がいて、娘がひとり。
そして、私の親友ともつきあっていた。
真弓とは、大学のころからのつきあいだった。
美人ではないけれど、男に甘えることが上手くて、
私の知らないところでいつも上手に獲物を捕まえていた。
真弓「あなたたち、やってるでしょ?」
ある日、真弓は白い傘を畳みながら言った。
それが本題のような口ぶりでもなく、
かといって冗談にするには湿りすぎていた。
「何の話?」
私は笑ってみせたが、笑いの端が引きつっていたのを自分でも感じた。
彼女は何も言わず、私のマグカップに自分の紅茶を注いで、
「あんた、ああいう人に、弱いでしょ」とだけ言った。
ああいう人。
たしかにそうだ。
水嶋の指は、熱くて、寂しくて、時々、やさしかった。
ある夜、私は彼の部屋で、背中を向けて抱かれていた。
汗をかいた背中に、額をつけるように彼が重なってくる。
その動きに合わせて、ベッドの軋む音が、まるで呼吸のように続いた。
「おまえの中は…やっぱり、落ち着く」
彼はそう言いながら、さらに深く入ってきた。
その夜は、いつもと違った。
優しさではなく、罪の重さのようなものが、私の脚のあいだにあった。
彼が去ったあと、私のスマホには真弓からの短いメッセージが届いていた。
「さっき、あの人と寝たよ」
その文字を読んで、私は笑った。
笑いながら泣いた。
彼は、どちらも捨てなかった。
もちろん、妻も。
真弓とは表面上、なにごともなかったように、
またランチをし、映画の話をして、季節がひとつめくれていった。
ただ私は、白い傘が畳まれる音を聞くたびに、あのときの真弓の声を思い出す。
「あなたたち、やってるでしょ?」
たしかに、やっていた。
身体も、心も、どうしようもなく。
けれど、それを恋と呼ぶには、少し温度が足りなかったし、
欲望と呼ぶには、どこかしら寂しさが混ざっていた。
今もときどき、水嶋から連絡が来る。
「会いたい」
「声が聞きたい」
「ただ、それだけなんだ」
私はそのたびに、返信せず、紅茶をいれる。
白い傘は、もう干したきり、使っていない。
つづく