第2話「濡れた襟足」
最初に水嶋と寝た日を、私は今でも正確に思い出せる。
八月の終わり、午後三時すぎ。
真弓が高熱で寝込んでいるからと、私に代わりに彼の展示会へ顔を出してくれないかと頼んできたのだ。
「行くだけでいいの。受付の子に名刺渡せば通してくれるから」
電話の向こうで、真弓は熱にうなされた声でそう言った。
銀座のギャラリーは冷房が効きすぎて、
私は薄いブラウスの袖を擦るように両腕を抱えた。
水嶋は人の合間から私を見つけ、目だけで笑った。
「来てくれたんだ」
「代理です」
「でも、嬉しい」
その言葉に、嘘はなかった。
水嶋は私の腕にそっと手を置いた。
あたたかい指だった。
妻のでもなく、真弓のでもない、まだ誰のものにもなっていない指。
展示会の帰り際、彼は「お礼に」と言ってバーに誘った。
やや古びたホテルのラウンジだった。
外は夕立。白い傘を持たなかった私は、彼に促されるまま、
ロビー奥のエレベーターに乗った。
「少し部屋で休んでいこうか。雨、止まないし」
その言い訳めいた一言に、私は断る理由を見つけられなかった。
部屋のソファに腰を下ろしてすぐ、彼は私の肩に手を置いた。
そのまま、ゆっくりと顔を近づけてきた。
肌が触れ合うぎりぎりのところで止まり、
私の目を見た。
「嫌なら、やめる」
その言葉に、私はわずかに首を振った。
キスはすぐに深くなった。
唇の柔らかさと、舌の湿りが、胸の奥に火を点けた。
指が、ボタンをひとつずつ外していく。
時間をかけて、喉元、鎖骨、乳房へと降りてくるたびに、
肌が呼吸し始める。
「綺麗だね…」
その囁きに、私は目を伏せた。
男の言う「綺麗」は、たいてい嘘だ。
でも、あのときの水嶋の声は、どこか苦しげで、
嘘にしては熱がありすぎた。
彼の舌が乳首を捉え、吸い上げたとき、
私は背中を反らせて、小さく声を漏らした。
脚を開くように促され、
ストッキングを彼の手が滑らせていく。
下着の上から指を押し当てられると、
そこはすでに濡れていた。
「もう…入れて」
彼のものは硬くて、太かった。
ゆっくりと押し入ってきたとき、
身体が裂けるような快感と疼きを覚えた。
そして、ただ抱かれる女になった。
ベッドの上で、私は水嶋に何度も貫かれた。
脚を肩にかけられ、奥まで突かれるたびに、
シーツを握りしめて声を殺した。
身体の奥の奥を抉られる感覚。
満たされていく中で、
私は自分が何を壊しつつあるのか、すでに分かっていた。
──そして、いま。
季節はめぐり、私はまた彼の部屋にいる。
「久しぶりだな」
彼はそう言って、ワイシャツの袖をまくった。
「もう終わったんじゃなかったの?」
私がそう言うと、彼は笑った。
「終わったような気がしたけど、忘れられなかった」
「誰を?」
「お前を」
私は笑わなかった。
でも、そのまま手を伸ばして彼の首を引き寄せた。
すぐにキスになった。
最初はゆっくりと、だがすぐに、
噛むような激しさがまじる。
服を脱がせ合い、床に押し倒された。
乳房を揉みしだかれながら、
私は脚を開いたまま、受け入れた。
男「あの時より…」
女「うるさい」
男「いや、ほんとに。もっと淫らだ」
女「黙って突いて」
彼は言われるまま、腰を打ちつけた。
くちゅっくちゅっと音が部屋に満ち、
湿った快楽が何度も押し寄せた。
果てる直前、私は彼の首に噛みついた。
彼のなかに妻がいて、真弓がいて、それでも構わず、
この体を渡した。
なぜか涙が出た。
快感のあとで、ひとしずく、目尻を伝った。
「帰るわ」
ベッドの上、まだ息の整わぬまま、私は立ち上がった。
下着を整えながら鏡を見たとき、
襟足の髪が、彼の汗で濡れていた。
それをタオルで拭いながら、私はつぶやいた。
「また、繰り返すのね」
彼は返事をしなかった。
ただ、煙草に火を点けて、ゆっくりと紫煙を吐いた。
私はドアを閉めたあと、もう一度だけ振り返った。
けれど、言葉はなかった。
それが、最後の夜になると、
どちらもわかっていた。