=青春プチロマン小説=ありそうでなさそうで、それでも起きそうなロマンスをお届けする短篇小説。きっとどこかで起きている。
呼吸の間(あわい)
昼下がり、職場の同僚に誘われて行ったヨガ教室は、思ったよりも静かだった。都会の喧騒を抜け、四階の古びた雑居ビルの一室。窓を半分ほど開け放ち、蚊取り線香の匂いがうっすら漂う。フローリングの床に、色とりどりのマットが無造作に並び、私は端っこに腰を下ろした。
「こんにちは」
その声が、少しだけ低くて柔らかくて、喉仏の位置が見えないのを確認してから、私は顔を上げた。
「初めての方ですね。緊張しなくて大丈夫ですよ。お名前、伺っても?」
「…山本です」
「山本さん、呼吸が浅いですね。吸うとき、胸じゃなくてお腹をふくらませてみて」
彼女の名前は森下佳子。長い手脚をしていたけれど、なぜかそれが鼻につかなかった。笑うと左の頬にだけ小さなえくぼが浮かぶ。その日の夜、私はいつもより熱い風呂に浸かり、何度も彼女の名前を反芻していた。
通う理由は、次第に健康でも運動でもなくなっていった。二週間に一度のヨガ教室は、私の「会いに行く日」になっていた。
佳子は、体に触れることを恐れなかった。背骨の向き、骨盤の傾き、呼吸の深さ──それを直すために、彼女の手は当然のように私の腰や肩に添えられた。
あるとき、私がシャヴァーサナ(仰向けのポーズ)で目を閉じていたとき、彼女の指が私のこめかみに触れた。何の前触れもなく、ひんやりとした指先がそっと肌を撫でたとき、私は心臓の奥をひとつ打たれたように感じた。
帰り際、「少し腰がかたいですね、個人セッションもしましょうか?」と佳子が言った。
それは、単なる好意だったのか、営業だったのか。私は深く考えずにうなずいた。
彼女の部屋は、教室の上の階にあった。引き戸の奥に畳の和室があり、そこに彼女は薄手のスウェット姿で座っていた。ガラスの急須に入れたジャスミン茶が、ほのかに甘い香りを放っていた。
「寝転んでください。いつもより深い呼吸で」
畳の上に仰向けになった私の横に、佳子は静かに座り、その手を私の腹部にそっと置いた。
「ここが…固い」
息を吸うと、彼女の手のひらが微かに上下する。触れているというより、私と呼吸を交わしている、そんな錯覚があった。
「体、冷えてますね。失礼」
そう言って、彼女の手が私の足首に触れた。ふくらはぎから膝裏へ、そして内ももを沿うように、ゆっくりと指が移動する。
私は目を閉じたまま、ただ呼吸の音だけを聞いていた。かすかに、佳子の呼吸と私のそれが重なって、同じリズムになっていることに気づいた。
「山本さん、私の手、いやですか?」
「……いいえ」
彼女の指が、私の鼠蹊部のあたりに止まったとき、私は初めて声にならない吐息をこぼした。
そして、佳子がゆっくりと私に覆いかぶさってきた。ふわりと落ちてきた髪が顔にかかる。彼女の唇は、私の耳たぶに触れるか触れないかの距離で、呼吸だけを残した。
「…呼吸って、性に似てるんですよ」
それが合図だったのかもしれない。私は、目を閉じたまま佳子の首筋に手を伸ばし、頬を寄せた。頬と頬が、肩と胸が、互いを押し合うように、ゆっくりと重なっていく。
肌の温度が混じり合い、畳のにおいと、ジャスミン茶の香りと、佳子の髪の柔らかさとが、ひとつになって部屋の空気を変えていた。
衣擦れの音だけが、畳の上に落ちた。
「痛くないですか…?」
彼女の声が、喉の奥でくぐもる。私はただ首を振る。
夜の帳が下りる頃、私は佳子の膝に頭を乗せ、長く深い呼吸をしていた。まるで、胎内に戻ったような安堵感。佳子の手が、私の髪を梳くように撫でていた。
「……また、来ていいですか?」
「……呼吸が、浅くなってきたら、ね」
佳子はそう言って、えくぼをひとつ浮かべた。
私はその小さな窪みの奥に、もう戻れない予感を見た。