『雨の夜には』
会社帰り、地下鉄の階段を上がると、思いがけず雨に降られた。持っていた紙袋がじわりと湿る。六本木の交差点、信号待ちの群れの中に、傘も差さずに立ちすくむ私がいた。
男「どうして君は、いつも傘を持たないんだ」
声に振り向くと、そこにいたのは田代さんだった。会社の取引先の、企画部門の課長。年齢は四十を少し過ぎているはず。灰色のスーツの肩に、雨粒が淡く光っていた。
女「なんとなく……降らない気がしたんです」
そう答えながら、私は自分の声がほんの少し震えているのに気づいた。彼とは仕事上で何度か顔を合わせたことがあったが、プライベートでこうして立ち話をするのは初めてだった。
彼は差していた黒い傘を少しこちらに傾けて、黙って歩き出した。私も何も言わず、その下に入る。歩幅が自然と合ったのが、妙に嬉しかった。
男「お腹、空いてる?」
信号を渡り切ったところで彼が言った。
女「はい。でも、家に何かあるので」
それは咄嗟の嘘だった。本当は、冷蔵庫に入っているのはコンビニのパック入りサラダと、飲みかけの白ワインだけ。けれど、誘って欲しいと思ってしまった自分が嫌で、言い訳めいた言葉を選んだ。
男「じゃあ、少しだけ。濡れずに済む店を知ってる。雨宿りのつもりで」
そのまま彼と並んで歩いた。連れていかれたのは、小さなビストロだった。入口に控えめな照明が灯っていて、窓には曇ったガラス越しに人影が揺れていた。
二人で赤ワインを注文し、小皿料理をいくつか頼んだ。会話は途切れがちだったけれど、沈黙は居心地が悪くなかった。雨音とグラスの触れる音が、妙に穏やかな気持ちにさせた。
女「……奥様は?」
聞くつもりではなかった。けれど、赤ワインが舌の上に残した渋みが、そのまま胸に染みこんできて、気づけば口にしていた。
男「うん。元気だよ。子どもも、もう中学生でね」
その言葉を聞いて、私は思わず目を伏せた。彼の横顔からは、なんの嘘も読み取れなかった。
食事を終えて、外に出ると雨はまだ止んでいなかった。彼はさっきと同じように傘を傾けてくれた。道の途中、彼の左手の薬指に光る指輪がちらりと見えた。私は思わずその手に、自分の手の甲をそっと寄せた。
彼が立ち止まった。雨音だけが響く。
その夜、私は彼と一緒にタクシーに乗り込んだ。どちらからともなく、行き先は言わなかった。
ホテルの部屋は、ビジネスライクで簡素だった。薄いカーテン越しに、街の灯りがぼんやりと漏れていた。
私はコートを脱ぎ、椅子に掛けた。彼は無言のままネクタイを外す。やがて、私の前に膝をつき、そっと手を伸ばしてきた。
男「……いいの?」
その一言が、かえって私の中の理性を揺らした。
女「だめですよ。ぜったいに」
そう言いながら、私は彼の頬に手を添えた。そのまま唇が重なった。
彼の手が、ゆっくりと私のブラウスのボタンを外してゆく。私も、彼の背に腕をまわした。ベッドの上で、互いに肌を確かめるように何度も触れ合った。
情事の後、私は彼の肩に頬をのせた。雨はまだ、窓の向こうで降り続いていた。
女「明日、会っても知らないふりをしてくれて構いません」
そう言うと、彼は小さくうなずいた。
それから二週間、私たちは仕事の顔を装ってすれ違い続けた。
けれど、ある日彼がふと書類を手渡す時、指先がわずかに触れた。その微かな温もりで、私はまた雨の夜のことを思い出してしまった。
何も始まらなかったし、何も終わらなかった。ただ、ひとときの雨宿りだった。
けれど、いまも雨の音がすると、あの夜の手のぬくもりを、私は胸の奥に思い出す。
おしまい