『雨の夜には』
第2話
村井と再び顔を合わせたのは、それからひと月ほど経ったころだった。
夫の出張で二晩留守にする夜、電話が鳴った。受話器から聞こえた声は低く、ためらいを含みながらも真っ直ぐだった。
「この間のお礼がしたくて……よろしければ少しだけ、お時間いただけませんか」
胸の奥が跳ねた。危ういとわかっているのに、私はなぜか断る言葉を探せなかった。
「……ええ、少しだけなら」
自分の口から出た返事に、私は驚いた。
その夜、村井は小さな紙袋を手に現れた。中には老舗の和菓子屋の最中が入っている。
「奥さまがお好きだと伺ったので」
その気遣いが、かえって心を乱した。
テーブルに並べた煎茶と最中。けれど前回とは違い、会話は続かなかった。互いの沈黙の重さが、むしろ近さを浮かび上がらせていた。
やがて村井がゆっくりと手を伸ばし、私の指先に触れた。
ほんの一瞬のはずが、私は引かなかった。
その温もりが脈打つように伝わり、胸が苦しくなる。
「いけない……」
口にしたのは制止の言葉だったが、声は震えていた。
村井の目は真剣で、どこか切羽詰まった色を帯びていた。
「奥さまに迷惑をかけるとわかっています。でも、どうしても……」
言葉の続きを待つよりも早く、私は彼の肩に手を置いていた。
その後のことを、私は正確には思い出せない。
ただ、触れた唇の熱さと、寄せられる腕の力強さ、そして雨上がりの夜気のように澄んだ匂い。
それらが渦を巻くように重なり、私たちは抗えない流れに身を委ねていた。
長い時間が経ったあと、私は布団の端に腰掛け、胸元を押さえていた。
村井は言葉を失ったように俯き、ただ静かに呼吸を整えている。
外では風が吹き抜け、木々の葉がざわめいていた。
「こんなこと、してはいけなかったのに」
私がつぶやくと、村井は顔を上げた。
「後悔させてしまいましたか」
その問いに、私は首を振った。
「いいえ……後悔なんて。でも――」
言葉の先を呑み込み、私は視線を落とした。
罪と悦び、その両方が胸の奥で絡み合い、形のない影となって広がっていく。
夫が戻れば、また何事もなかったように日常が始まるだろう。
けれど、今夜だけは違う。私たちは確かに境界を越え、互いの影を分け合ってしまった。
その重さを抱えたまま、私は灯りを消した。
暗闇の中で、まだ温もりの残る村井の気配を感じながら――。
つづく