喫茶 柘榴(ざくろ)
その喫茶店は、三軒茶屋の裏通りにあった。
朝はモーニングセット、昼はナポリタン、夜はアイスウィンナーコーヒーとラムケーキ。
誰かに教えたくなるようで、教えたくない――そんな店だった。
彼と最初に会ったのも、そこだった。
仕事帰りに立ち寄った夜、カウンターの端で彼が新聞を読んでいた。
少し襟元がくたびれた白シャツに、茶色のベスト。髪は少しだけ伸びかけていた。
「お先にどうぞ」
トイレの前で譲られた、それだけのことだった。
でも、なぜか、声が耳に残った。
次の週も、またその店に行った。
偶然か、彼はまた、同じ席にいた。新聞と、アイスコーヒー。
ちらりとこちらを見て、少しだけ口元を上げた。
名前を知ったのは、三回目の夜。
仕事帰りにバッグの紐がちぎれて、床に化粧ポーチをぶちまけたときだった。
「拾いますよ」
と、彼が言った。
ポーチを差し出しながら、
「よかったら、名前だけでも」
そう言って、彼は自分の名刺を渡してきた。
***
彼は、編集の仕事をしていた。
年は十ほど上。既婚者だった。
「もう、家ではただの『空気清浄機』みたいなもんですよ」
冗談めかして笑っていたが、左手の薬指には、細い銀の輪がきちんとはまっていた。
私は、独身だった。
彼に、家族のことを深く聞くことはなかった。
ただ、時々、彼の目の奥が遠くを見ているようなときがあった。
季節がひとつ、変わったころ、彼がこう言った。
「一度、外で会えませんか」
そうして向かったのが、湯河原だった。
平日、一泊だけの、温泉宿。
何も起きないふりをするには、あまりに静かな宿だった。
部屋に入るなり、彼はお茶を淹れてくれた。
湯呑の縁に指が触れるだけで、背中に熱が走った。
湯に浸かり、薄手の浴衣を着て、布団に横になる。
すべてが自然な流れだった。
彼の指が、頬から首筋、鎖骨をなぞる。
唇が触れたとき、私は目を閉じた。
「いいの?」
彼のその問いに、私は頷いた。
言葉より、沈黙のほうが、熱を孕んでいた。
浴衣の紐が解ける音さえ、やけに大きく響いた。
肌と肌のあいだに、熱が、波のようにうねる。
彼の手が、胸を包むと、遠くで蝉が鳴いた気がした。
すべてが過不足なく、けれど不確かだった。
どこまでが現実で、どこからが夢だったのか、わからなかった。
***
翌朝、二人で朝食をとりながら、会話は他愛なかった。
「あなた、卵焼きは甘いのとしょっぱいの、どっちが好き?」
「甘いやつ。関東風っていうのかな」
「じゃあ、私とは合わないわね」
そう言って笑いながら、私はしょっぱい卵焼きをひとつ彼の皿に移した。
別れ際、駅のホームで、彼が言った。
「次は……ないかもしれないけど、それでも、ありがとう」
「うん」
私は、それ以上なにも言わなかった。
言葉にしてしまうと、何かが壊れてしまいそうだった。
彼が乗った電車が発車してから、私はずっと立ち尽くしていた。
***
その後、何度かメールを交わしたけれど、次第にやりとりは減っていった。
彼が去ったあとも、私はあの喫茶店にたまに通っている。
変わらず、アイスウィンナーコーヒーとラムケーキ。
味は、以前と同じ。けれど、どこか奥のほうで、何かが変わってしまった気がする。
グラスの水滴が、テーブルに丸い跡を残す。
誰にも言えない時間は、確かに存在した。
思い出というよりは、ひとつの傷のように、そっと疼く。
でも、それも、生きている証なのかもしれない。