『雨の筋』

短篇小説

=青春プチロマン小説=ありそうでなさそうで、それでも起きそうなロマンスをお届けする短篇小説。きっとどこかで起きている。 

『雨の筋』

 日曜の午前、雨がまっすぐに降っていた。空気は水を吸って重く、部屋の窓ガラスに小さな雫が何本も細い線を描いている。
 俺はその線を見ながら、あの女の肩の形を思い出していた。

 彼女は「春子」といった。春に子と書いて、はるこ。名は体を表すというのか、陽だまりの中で、猫のように背筋を伸ばす姿は、春そのものだった。

 出会いは三か月前。会社の同僚に誘われて行ったヨガ教室でのことだ。
「身体、硬いですね」
 そう言って笑った春子の歯が白くて、俺は少しだけ背筋を伸ばした。
 週に一度の通いは、俺の生活の中に音もなく入り込んだ。日曜の朝に彼女の姿を見ることが、習慣になった頃、ふと、彼女の指先に目が留まった。細くて、長くて、何かを責めるようでもあり、慈しむようでもあった。

「指が綺麗ですね」
 言った瞬間、自分の声が教室に残った。
 春子は少し間をおいて、笑わずにこう言った。
「言われたの、久しぶりです」

 それからだった。クラスのあと、少しだけ話すようになったのは。今日も、終わった帰り道、傘を差さずに立っていた俺に彼女が声をかけた。
「雨、好きなんですか?」
「濡れてもどうせ乾きますから」
 そう答えると、彼女は少し笑ってから、傘を差し出した。

「うち、すぐそこなんです。よかったら」

 ヨガインストラクターの部屋は、意外と質素だった。玄関には小さな観葉植物が置かれ、ラグの上には本が数冊。匂いは石鹸と煎茶。
 春子は髪を後ろでひとつに束ねて、ポットにお湯を入れた。
 その横顔が綺麗だった。濡れたままの俺は、何かを喉の奥に詰まらせたように、じっとその手元を見つめていた。

「ヨガって、男の人は苦手ですよね」
 カップを差し出しながら、春子が言った。
「僕は、あなたがいるから来てるんだと思います」
 口に出してから、少しだけ後悔した。だが、春子は目をそらさなかった。

「あなた、口数は少ないけど、身体は嘘をつかない人ですね」

 春子はそう言うと、手を俺の腕にそっと置いた。濡れて冷たくなったシャツ越しに、その温もりが伝わってくる。
「脱ぎましょうか。そのままだと、風邪ひきますよ」

 そうして、シャツを脱がされ、タオルで拭かれながら、俺は黙って彼女の指先を見ていた。髪を、背中を、腕を、静かに拭うたびに、彼女の呼吸が近くなる。
 まるで、何かの儀式のようだった。
 服を脱がされるのではなく、纏っていたものを一枚ずつ剥がされていくような、そんな感じ。

 春子は自分の手を止め、俺の目を見て、問うように首をかしげた。

「ここに、いたいんですか?」
 俺はただ、頷いた。

 唇が触れ合うまでに、時間はかからなかったが、焦りもなかった。春子は、ゆっくりと目を閉じた。
 唇の柔らかさよりも、彼女の頬の熱が印象に残っている。
 服を脱ぎ、体温が重なるたびに、彼女の指が俺の背をなぞる。肩甲骨のあたり、いつもヨガのポーズで意識していた箇所を、彼女の指が探るように滑っていく。

「あなた、猫背ですね」
 そう言って、小さく笑った。
 だが、そのあと、指先がぐっと俺の首筋に回った時、その笑みは声に変わらなかった。
 彼女の身体は、想像よりずっと静かだった。
 けれど、奥には、火のような熱が宿っていた。

 呼吸が、肌と肌の間で合わさって、ほどけていく。
 ヨガの教えと同じだった。無理に伸ばそうとせず、ただ、そこにあるものを受け入れる。春子は、そんなふうに俺に触れた。

 終わったあと、俺たちは並んで座り、開けた窓から雨の音を聞いた。
 遠くで車の水しぶきが上がり、また静けさが戻る。
 彼女は俺の腕に頬を乗せて、ぽつりとつぶやいた。

「雨の日って、嫌いじゃないんです」
「僕も、今日からそうかもしれません」
 その言葉に、春子は声を出して笑った。


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