真砂子は午前の光に包まれたキッチンで、コーヒーを淹れながら窓の外を眺めていた。雨上がりの庭には、紫陽花がまだ湿った色を残している。夫との結婚生活は十年を越え、子どもには恵まれなかった。そのせいか、毎日が淡々と流れ、時折、自分の存在が溶けてしまうような感覚に襲われることがあった。
その日、町内会の集まりで顔を合わせたのは、近所に住む高橋だった。彼には小学一年生の娘がいて、いつも子ども連れで公園に現れる印象しかなかった。久しぶりに会った高橋は、以前より少しだけ痩せ、髪の毛も端正に整えられていた。挨拶の笑顔には、どこか無防備な温かみがあった。
「雨、上がりましたね」
彼の声は思ったより低く、静かに耳に届く。真砂子は思わず肩をすくめた。言葉の端々に、家庭人としての疲労も見え隠れする。
「はい、紫陽花がきれいで……」
言いながらも、心のどこかで、彼に視線を絡めたい自分を感じていた。
数日後、偶然が重なり、二人は図書館で再会した。雨傘をたたむ高橋の手元に、思わず目が留まる。真砂子の胸の奥で、いつもとは違う波が静かに立った。
「この本、面白いんですよ。子どもに読ませても」
高橋は児童書のページをめくりながら微笑む。その笑顔に、真砂子は心の奥底をくすぐられるような感覚を覚えた。結婚していて、子どももいる彼に、なぜか惹かれてしまう。
夜、真砂子はキッチンの灯りの下で、ひとり、白いカップを手に持ったまま考えていた。夫との会話は減り、生活は整然としている。だが、心の奥底には、誰にも触れられない渇きがあった。高橋に会うたびに、その渇きが静かに満たされるような気がしたのだ。
ある週末、町内会の行事で二人は再び顔を合わせた。人混みの中、彼が真砂子に小さく手を振る。心臓が軽く跳ねた。お互いに声をかけずとも、視線だけで会話が成立しているような、不思議な親密さがあった。
夜、帰宅した真砂子は、ベッドで目を閉じながら、その日の高橋の仕草を思い返していた。何気ない肩の動き、笑い声、柔らかな手の形。触れたこともないのに、胸の奥が熱くなる。自分の中に芽生えた感情の存在を、否応なく自覚する。
翌週、二人は図書館のカフェで偶然隣の席になった。会話は子どもの話から始まるが、やがて自然に個人的な話題へと移っていく。家庭の悩み、日常の小さな不満、誰にも言えない孤独。
「家に帰ると、つい独りでいる時間が長くなります」
高橋が漏らす言葉に、真砂子は思わず自分の胸を重ねた。誰にも触れられない孤独を、彼は理解してくれるのではないかと、密かに期待した。
その瞬間、真砂子は悟った。自分は、もう戻れないかもしれない、と。家庭の外に、誰かを求める気持ちが芽生えたのだ。子どもを持つ彼に惹かれる自分を、抑えきれない。罪悪感と同時に、胸の奥に鮮やかな生の感覚が走る。
それからの日々、真砂子は高橋に会うたびに心の奥で小さな炎を灯すようになった。二人の間には、言葉にならない距離感と、微妙な親密さが漂う。触れられないけれど、確かに近い。互いの存在が、日常に溶け込むかすかな刺激となって、二人を静かに引き寄せる。
ある晩、真砂子はベッドで目を閉じ、手のひらに彼の温もりを想像した。想像だけで胸が高鳴る。家庭の安定と、手に届かぬ熱の狭間で、彼女は初めて、自分の欲望に気づく。
「こんな気持ちになるなんて……」
小さな呟きが、夜の静寂に溶けた。官能とは、必ずしも触れることだけではない。目に見えない距離、触れられぬ熱、それもまた深い官能の一端なのだと、真砂子は理解した。
そして真砂子は思った。未来がどうなるかはわからない。だが今、この瞬間に生きている自分の心は、確かに揺れている、と。子どもを持つ彼に惹かれる罪深さを知りつつも、その感情が彼女に生きる喜びを教えてくれるのだった。