「横浜ルームナンバー」第2話 作/奈良あひる

短篇小説

一度きりのはずだった。
けれど、次の週にはもう、彼からのメッセージが届いていた。
「昨日の雨、すごかったですね」と、天気の話を装いながら、行間に熱を滲ませていた。

そしてまた私は、夫に「美容院」と言い残し、横浜線に乗っていた。

待ち合わせは、関内駅の北口。
彼はいつも先に着いていて、コンビニの前で缶コーヒーを手にしていた。
「変わりないですか」
そう尋ねる彼の声が、妙に清潔で――それがかえって、身体の奥をざわつかせた。

ホテルは、伊勢佐木町の裏通りにある。
外観はどこか古めかしく、窓の小さい建物だった。
名前は覚えていない。
けれど、部屋番号はずっと忘れられない。508号室。
入り口のすぐ右、薄暗い廊下の突き当たりだった。

「……私ね、ラブホテルって、嫌いじゃないの」

ふと、そんなことを言ったのは三度目の逢瀬だった。

彼は、裸の私の髪を撫でながら笑った。

「うれしい。それ、なんか救われる」

「どうして?」

「こっちが罪悪感に潰れそうなとき、そう言ってくれる女の人がいると――甘えたくなる」

シーツの端にひじをついて、私は彼を見た。

「私は、甘えられるほど強くないわ」

そのとき彼は黙って、私の背中に唇を押しつけた。
長く、動かずにいた。
私の背の骨をなぞるように、唇の熱が這った。

彼といる時間、私は妙に素直になってしまう。
夫には言えない愚痴も、枕の中にこもらせた欲も、彼には小さく吐き出せた。

***

山下公園のベンチに座った日もあった。
風が強くて、彼の髪がぐしゃぐしゃになった。

「こんな昼間に手をつなぐなんて、高校生みたいね」

「でも君、さっきから手、握り返してるよ」

「……そういうとこ、ずるいのよ」

彼は笑って、私の手にキスをした。

いつも部屋では彼がリードしていたのに、ベンチの上では私のほうがわがままだった。

「あなた、私の体のどこが好き?」

「……全部、って言ったら嘘っぽい?」

「うん、少し」

「じゃあ――下腹のやわらかいところ。触れたら、震えるでしょ」

その言葉に、私の太ももがじんわりと熱くなった。
誰にも見せたことのない顔を、この人の前だけは晒してしまう。

***

関内駅から歩いて五分。
伊勢佐木町の通りを一本入った先、少し古びたラブホテルに、彼と私は足を向けていた。
508号室は、もう四度目になる。

「今日、何してきたの?」
ベッドに腰を下ろしながら、彼が聞いた。

「午前中は掃除。それから、夫が新しい塗装用のコンプレッサーを通販で買ったの。さっき、玄関でニコニコしながら段ボール開けてたわ」

私は浴衣の帯をゆっくりと解いた。
シーツに触れる肌に、エアコンの風がぬるくまとわりつく。

「そういう姿、かわいいね」

「かわいいなんて、夫には十年言ってないわよ」

彼は笑いながら、私の足首を両手で包んだ。
指の節がごつごつしていて、触れるだけで膣の奥がうずく。

「あなたの奥さんは、今日は?」

彼の手が、ゆっくりとふくらはぎを撫でる。

「今日は、出張。いや、出張っていうか、会社の企画で温泉地の取材。実はね、彼女、今ちょっと面白い仕事してるんだ」

「どんな?」

「“ショッピングモールで偶然出会った男と、女性はどこまで関係を進められるか”っていう……まぁ、実験的な恋愛レポート」

「は?」

私は体を起こして、思わず笑ってしまった。

「それ、まんま私たちじゃない」

「でしょ。でも妻は、俺がそんなことしてるなんて、当然知らない」

彼はそう言って、うなずきながら私の胸に手を伸ばした。

「企画立てたのも彼女で、書くのも彼女。しかも本人が体験までしてるっていう……」

「え、取材じゃなくて、実際に?」

「うん。たぶん、相手の男は事情知らない。妻はそれを“女性の自由の表現”とか言ってるけどさ」

私は言葉を失った。

「それって……そんなの……」

「ちょっとすごいでしょ。女として、じゃなくて“書き手として”全うしようとしてる」

彼は湯気越しに笑ったが、瞳の奥はどこか乾いていた。

その夜、私はいつもより強く彼を抱いた。
奥の奥まで欲しくなった。
今、たしかに私は、この男の“体験”のひとつなのだと思いながら。

ベッドでシーツを引き寄せながら、私がぽつりと聞いた。

「じゃあ……あなたは? どうしてこんなこと、私と……」

彼は少し口ごもったあと、視線をそらして言った。

「……言いにくいんだけどさ。実は……その企画に取り組む妻を想像してたらなんか耐えられなくなってきて、妻が企画とはいえ、誰かとしていると思うと…」

「…そう」

彼は沈黙した。

「最初は嫉妬からだった。でも今は、全然ちがう」

私は返事をしなかった。そんな話を聞いてしまえば、私たちの情事だって企画なのか本気なのかわからない。
膝を抱え、窓の外の明かりを見ていた。

男の妻が、男と関係を持ちにいき、
男自身もまた、誰かに近づいていく。

その“誰か”が、私だった。
この逢瀬は、雑誌のレポートの一章にすぎないのかももしれない。

でも、心臓の音だけは、原稿用紙には書き込めない。

彼が布団の端からそっと手を伸ばし、私の指を探った。
私はそれを、ゆっくり握り返した。

***

「奥さん、綺麗?」

「綺麗だよ。でも、あれは“外向き”の綺麗さ。俺のことはもう、業務の一部みたいに扱ってる」

私は、胸元まで滑ってきた彼の指に、自分の手を重ねた。

「私ね。こういう場所、昔は少し怖かったの。嘘が剥がれてしまいそうで。でも今は……」

「どう?」

「好きになってきた。正直すぎる部屋」

彼の手が私の胸をつかみ、親指が乳首を軽く弾く。
力は優しいのに、熱が一気に下腹に集まる。

「じゃあ、剥がそうか。嘘」

彼はそう言って、私をベッドに押し倒した。

シャツのボタンを外されながら、私は思った。
たとえ誰の妻であっても、誰のものにもなりきれない部分が、自分の中に確かにある。
その場所が、彼の手によって今、明け渡されていく。

下着をずらされ、彼の舌が内腿を舐め上げると、全身が波打った。
自分の声が、ひどく若く聞こえた。

「あっ、だめ……」

「だめじゃない。ここが、こうやって脈打ってる」

指が割れ目をなぞり、奥へと沈んでいく。
既に十分濡れていた。いや、最初から濡れていたのだ。

彼がコンドームをつけ、私の中に入る瞬間、背筋が反った。
ゆっくりと、何度も奥を擦られながら、乳首を吸われると、息が詰まりそうになる。

「もっと……深く」

「このまま、つながったままにしたい」

彼の声は低く、私の耳の奥をくすぐった。

一度、彼が深く突いた瞬間、体の奥がきゅっと締まり、私は果てた。
腰が跳ねて、涙がこぼれた。

彼は私の額にキスをしながら、動きを止めていた。
熱と吐息だけが、しばらく部屋に残った。

***

「ねぇ、あなたの奥さんの企画って、いつ雑誌に載るの?」

「来月号。たぶん特集の頭にくるはず」

「……買うわ、私も。なんだか、他人事じゃないもの」

「本屋じゃなくて、Amazonで頼みなよ。目立たずに済む」

彼がそう言って笑うので、私は枕を投げて返した。

こんなふうに、ばかみたいな会話で終われる夜がある。
火遊びのはずが、だんだん焚火みたいになってきた。

でも、まだ別れのことなんて考えていない。

今はまだ、508号室の枕に頬を預けて、誰にも見られない自分でいられる時間が、ただ心地よい。

つづく

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