青春プチロマン小説「夏の終わりの留守番電話(終)」作/奈良あひる

短篇小説
短篇小説

『夏の終わりの留守番電話 その後』


達也と別れた翌日、私は朝から落ち着かなかった。
特別なことがあったわけではない。
ただ、長い年月の向こうに置き去りにしていた感情が、急に息を吹き返したようだった。
洗濯物を干しながら、ふと昨日の夕暮れを思い出す。
横断歩道の向こうへ歩いていく達也の背中。
昔と同じようでいて、少しだけ小さく見えた。
年齢のせいなのか、それとも私自身の記憶が変わったのか。
分からなかった。
数日後、達也から短いメールが届いた。
「この前はありがとう」
それだけだった。
私も同じくらい短く返した。
「こちらこそ」
そのやり取りで終わるはずだった。
けれど終わらなかった。
季節の話。
昔よく通った店の話。
共通の知人の近況。
どれも当たり障りのない内容なのに、不思議と心が温かくなった。
ある晩、達也から電話がかかってきた。
互いに黙る時間が長かった。
若い頃なら気まずく感じた沈黙も、今は違う。
沈黙の中にさえ、共有した時間が流れていた。
「なあ」
達也が言った。
「もしあの頃、違う選択をしてたらどうなってたと思う?」
私はしばらく答えられなかった。
窓の外では秋の雨が降っている。
街灯の光が濡れたアスファルトに揺れていた。
「分からない」
そう答えるのが精一杯だった。
本当は少しだけ考えたことがある。
けれど人生は、選ばなかった道の答えを教えてくれない。
「そうだよな」
達也は笑った。
「でも今のほうが、ちゃんと話せる気がする」
その言葉に私は頷いた。
若い頃の私たちは、近すぎた。
近すぎたからこそ、本音を隠し、未来を語れなかった。
今は互いに別々の人生を歩いている。
だからこそ、ようやく相手を一人の人間として見られるのかもしれない。
電話を切ったあと、私は夫の寝顔を見た。
穏やかな寝息が聞こえる。
この人と築いてきた時間もまた、本物だった。
達也との思い出が色褪せないように、夫との日々も確かに積み重なっている。
人は一人だけを愛して生きるわけではない。
けれど、誰かを大切に思った記憶は、その後の人生を静かに支えてくれる。
達也はもう過去の人ではなかった。
かといって未来の人でもない。
私の人生という長い物語の中に、一章だけ鮮やかに残っている登場人物だった。
秋が深まる頃、私は留守番電話の古いメッセージを消した。
もう必要ないと思ったからだ。
声を失ったわけではない。
思い出は、私の中にちゃんと残っている。
再生ボタンを押さなくても聞こえるくらいに。
窓を開けると、冷たい風がカーテンを揺らした。
夏は終わっていた。
けれど、その夏を懐かしく思える自分が少しだけ好きになれた。

おしまい

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