
『夏の終わりの留守番電話』
その声を聞いたのは、八月の終わりだった。
冷蔵庫の麦茶をコップに注ぎながら、私は何気なく留守番電話の再生ボタンを押した。
「久しぶり。元気か」
たったそれだけだった。
名前も名乗らない。けれど、私はすぐに分かった。
達也だった。
結婚して五年になる。
夫は真面目な人で、穏やかな暮らしを与えてくれた。休日にはスーパーへ一緒に買い物へ行き、夜になればテレビを見ながら居眠りをする。誰かに自慢するような華やかさはないが、不満もなかった。
それなのに、その短い声だけで、遠い季節の引き出しが音を立てて開いた。
達也とは、恋人ではなかった。
お互いに仕事帰りに会い、酒を飲み、取り留めのない話をした。将来を語ることもなく、約束を交わすこともない。
けれど、不思議なくらい気が楽だった。
彼は私の弱さを知っていて、私は彼の孤独を知っていた。
夜更けのファミリーレストランで、冷めたコーヒーを前に朝まで話したこともある。
雨の日、相合傘で歩いた商店街。
古本屋の埃っぽい匂い。
川沿いのベンチ。
思い出すのは、そんな些細なことばかりだった。
結婚が決まったとき、達也は何も言わなかった。
駅前の居酒屋で祝杯をあげ、「よかったな」と笑った。
その笑顔が少しだけ寂しそうに見えたのは、たぶん私の思い込みだったのだろう。
帰り際、彼は言った。
「もう会わないほうがいいな」
私は頷いた。
それが一番正しいことだと分かっていたから。
以来、一度も会っていなかった。
留守番電話の声を聞いてから三日後、私は思い切って折り返した。
駅前の喫茶店で会うことになった。
窓際の席に座る達也は、少しだけ年を取っていた。
私も同じなのだろう。
白髪が一本増えたことや、老眼鏡を買ったことを笑い合う。
それだけだった。
それだけなのに、懐かしかった。
昔なら言葉にしなかったことまで自然に話せた。
互いの人生に、もう踏み込む余地はない。
だからこそ、安心して向き合えたのかもしれない。
店を出る頃には夕暮れになっていた。
西日がビルの窓に反射し、街全体が琥珀色に染まっている。
駅へ向かう横断歩道の前で、私たちは立ち止まった。
信号は赤だった。
「元気そうでよかった」
達也が言った。
「そっちも」
私は答えた。
それ以上の言葉は必要なかった。
青信号になり、人の流れが動き出す。
達也は反対側へ歩いていった。
振り返らない。
私も振り返らなかった。
けれど家へ帰る電車の窓に映った自分の顔は、少しだけ若い頃に戻って見えた。
誰かを失った記憶ではなく、誰かと過ごした時間に救われている顔だった。
人生には、結ばれなかったからこそ美しく残る関係がある。
夫の待つ家へ向かいながら、私はそう思った。
夜風には、もう秋の匂いが混じっていた。

つづく
⇩つづき


