=田中屋スポーツ新聞=新聞を読めと言われた世代!?読むならスポーツ新聞だな。情熱といかがわしさのサンドウィッチ。ジャンクな話題をコーヒーで流し込め!学校でも職場でも使える話題をお届け
連載プチロマン小説「満天のエスカレーター物語」第1話

その人がスマホを持っていないと知ったとき、私は少しだけ安心した。
待ち合わせの喫茶店で、向かい合って座った彼は、テーブルに何も置かなかった。鍵と、古びた文庫本だけ。世の中の人がみんな、光る板を伏せたり裏返したりしている中で、彼の前だけがやけにすっきりしている。
「持たないんですか、携帯」
「なくても、困らないから」
そう言って笑う顔が、子どもみたいだった。
私も同じだった。会社を辞めたとき、スマホを解約した。呼び出されることも、既読がつくことも、もうたくさんだった。世界から細い糸で引っぱられている感じが、どうにも性に合わなかった。
だから私たちは、すぐ仲間みたいになった。
帰り道、駅裏のロータリーにある野外のエスカレーターの話になった。
「屋根がないやつ、知ってます?」
「ああ、雨ざらしの」
「夏は手すり、ぬるいんですよね。冬は氷みたいで」
「機械なのに、体温があるみたいだ」
同じことを考えていたらしい。思わず笑ってしまった。
誰もいない午後、そのエスカレーターに二人で乗ったことがあると言う。風が吹き抜けて、妙にさびしくて、でも帰りたくなくて。
「なんか、人間みたいでさ。働きっぱなしで、ちょっとかわいそうで」
彼の声は低くて、耳の奥にやわらかく触れた。
私は急に、その景色を彼と見たくなった。
夕方、実際にそこへ行った。
人影はなく、金属の段差だけが淡々と上へ運んでいる。夕日を浴びて、銀色が少し桃色に染まっていた。
手すりに触れると、まだ昼の熱が残っている。
「ほんとだ、あったかい」
言った瞬間、彼の手が私の手の上に重なった。
偶然みたいに、自然に。
逃げる理由が、思いつかなかった。
上へ運ばれていく間、私たちは黙っていた。風で髪が頬に当たる。彼の指が、そっと絡む。エスカレーターの低い駆動音が、心臓の音みたいに聞こえた。
機械に抱き上げられているようで、少しだけ無防備になる。
そのまま近くの古いホテルに入ったのは、成り行きだった。
部屋は薄暗く、カーテンがゆれている。遠くで車の音。
彼のシャツの匂いが、洗いたてのシーツみたいで、胸の奥がきゅっとした。
キスは、驚くほど静かだった。
触れられるたび、体がゆっくり溶けていく。長い間しまっていた引き出しを、ひとつずつ開けられていくみたいに。
言葉はほとんどなく、ただ体温だけが行き来した。
帰り際、またあのエスカレーターを下から見上げた。
夜の灯りに照らされて、黙々と動いている。
「明日も、あれは動いてるんだろうね」
「うん。誰が乗っても、同じ顔して」
私たちは笑った。
スマホがないから、連絡先も交換しなかった。ただ時間と匂いだけが残る。
それで十分だと思った。
あのエスカレーターみたいに、名前もなく、用もなく、ただ静かに隣に立てる関係が、私にはちょうどよかった。
手すりのぬくもりが、まだ指先に残っていた。
つづく
本日の献立
朝:ピーマン ブロッコリー プチトマト
昼:Mint弁当
夕:焼肉天龍
夜:カレーライス

