もう探すのはやめにしましょう
出てった恋なら見つかりゃしない
それより明日を夢見て歩く
あの頃のままのあなたでいて
愛は永遠と信じてしまった 嗚呼 夢月夜
もともとないと思えば 幸せだった日々
もともとないと思えば 嗚呼 忘れられるさ
歌詞から小説化「もう探さないで」
電話のベルが鳴ったのは、夜の十時を少し過ぎた頃だった。
机の上で開きっぱなしにしていた雑誌を閉じながら、加奈子は受話器に手を伸ばした。
「……はい」
呼びかけの向こうに、ためらうような息づかいがあった。
「僕だ。出てこられないか」
短くそれだけ告げて、男は切った。
しばらく加奈子は受話器を握ったまま動けなかった。結婚してからは、こうした誘いに応じるのは愚かだと自分に言い聞かせてきた。だが「探さないで」と言わんばかりの背中をいつも見せて去ってゆくその人の声には、抗えない響きがあった。
薄いカーディガンを羽織って外へ出ると、夜気が思いのほか湿っていた。タクシーに乗るほどの距離でもなく、歩くたびにサンダルの踵が小さく鳴った。
待ち合わせの喫茶店はもう閉まっていて、代わりにその隣の古びたバーの扉が開いていた。黄色いランプが、半分眠っているように光っている。
「来てくれたんだ」
奥の席に彼はいた。白いシャツの襟が少し皺んでいる。彼の目元は、仕事帰りの疲れなのか、それとも別の緊張からなのか、柔らかく影を落としていた。
二人並んでグラスを傾けるうちに、言葉は次第に少なくなった。店のスピーカーから流れる古いジャズが、加奈子の心臓の鼓動に重なってくる。
「外に出ようか」
促されるまま歩き出すと、街はすでに人影もまばらだった。ガード下を抜けると、夏草の匂いが風に混じる。
彼は急に立ち止まり、加奈子の手を取った。その手は驚くほど熱く、しかし震えていた。
「……探したくはなかったんだ。本当は。でも、どうしても」
低い声が夜の静けさに吸い込まれていく。
加奈子は笑うしかなかった。探さないで、と自分に言い聞かせながら、こうして来てしまったのは誰あろう自分自身だったから。
ホテルの灯りが見えたとき、足を止める理性はどこかへ消えていた。
小さな部屋のベッドに腰を下ろすと、二人の距離は否応なく縮まった。明かりはつけたままなのに、影が絡まり合っているようだった。
彼の指先が加奈子の髪をすくい上げ、耳の後ろをなぞる。くすぐったさよりも先に、体の奥で波のようにざわめく感覚が広がっていった。
「忘れられないよ、君を」
囁きとともに肩に唇が触れた。ほんのかすかな重みなのに、胸の奥に火を点されたようだった。
互いの衣擦れの音が重なり、吐息が近づいていく。直接的な言葉を交わさなくても、身体が求め合ってしまう瞬間を、加奈子は恐ろしくも愛おしいと思った。
時間が止まったかのように、外の世界は遠ざかる。二人だけが閉じ込められた小さな宇宙で、静かに、しかし確かに境界を越えてしまった。
――帰り道、加奈子は空を見上げた。雲間からのぞく月が、淡く滲んでいる。
探さないで、と言いながら、結局は見つけられたいと願っていたのだ。
家の明かりが近づくにつれ、背中にまだ彼の体温が残っているのを感じる。そのぬくもりが消えてしまわないうちに、胸に抱きしめた。
翌朝、いつものように食卓につき、夫と向き合う。新聞を広げる音、味噌汁の湯気。日常は何事もなく流れていく。
けれど心の奥底には、昨夜の夜気の匂いと、耳もとに落ちた囁きが、消えない影のように揺れていた。