プチロマン小説の習作T「波のあとさき」後編 奈良あひる

短篇小説
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短篇小説

=青春プチロマン小説=ありそうでなさそうで、それでも起きそうなロマンスをお届けする短篇小説。きっとどこかで起きている。 

後編 背中の波紋

彼女との出逢いは、六月の朝だった。
海辺の小さな駐車場で、俺はサーフボードを立てかけてコーヒーを淹れていた。

女「それ、少し分けてくれない?」

声の主は、濡れた髪のままサンダルを鳴らして歩いてきた女だった。
日焼け止めの香りと塩の粒子をまとった、笑うと子どもっぽい女。

紙コップを渡すと、彼女はそれを両手で持って、
「ありがとう」とだけ言った。

それだけの朝。

だけど、その一杯のコーヒーから、夏は滑り出していった。

俺は彼女に惹かれていった。
海上がりの濡れた肌。
波待ちのときの真剣な横顔。
そして、夜になるとベッドの上でだけ見せる、
湿った息と指先の震え。

彼女も俺を選んでくれたように見えた。
仕事も住む場所もバラバラのまま、
だけど、波がいい日は必ず会って、
シャワーを共に浴び、
シーツのしわにからまって、眠った。

だけど、それは、ずっと「たまたま」の形をしていた。
何の約束もなかった。
それが、俺たちの危うさだった。

女「友だちの男と…ちょっとだけ」

その言葉を、彼女が口にしたとき、
俺の中の何かが静かに沈んでいった。

女「酔ってて、断れなくて…でも、全部じゃないの。気持ちも、カラダも」

男「全部じゃなかったら、許せると思ってんの?」

女「違う。許してなんて、言ってない。ただ、…」

彼女はそう言った。
男「ただ、何?」
女「しちゃだめなんて約束はない。あなただってどこでなにしてるかわからない」

ベッドの上で交わした言葉じゃない。
波打ち際で笑いあった声でもない。
そのときの彼女の声は、どこか、
深く冷えた海の底みたいだった。

最後に抱いたのは、その夜だった。

服を脱がせ合うというより、
手探りで溺れていくようなまぐわいだった。

「もう…しないから」

彼女はそう言ったけれど、
その背中に爪を立てながら、
俺はもう信じられなかった。

いや、信じるふりすら、できなかった。

彼女の中に沈むたび、
もう誰かが先に通った痕跡を感じた。
それが本当にあったのか、俺の嫉妬なのかはわからない。
でも、愛していた分、傷は深かった。

果てたあと、
俺は彼女の髪を撫でながら、
こう言った。

「なぁ、もうやめにしようか」

彼女は目を閉じたまま、
ひとつ深く息を吐いた。

「……そうだね。ありがとう、今まで」

その言葉が、最後だった。

夏が過ぎても、海は変わらず波を寄せていた。
だけど、彼女の姿を見ることは、もうなかった。

俺は一人でボードを担ぎ、
あの六月の朝を思い出していた。
「それ、少し分けてくれない?」と笑った彼女。

あの一杯のコーヒーが、
こんなに長い波の始まりだったとは、知らなかった。

シーツのしわと、
指先の余韻だけが、まだどこかに残っている。

けれど潮は引く。
痛みも、熱も、きっと時間とともに引いていく。

あの背中の波紋も、
やがて見えなくなる。
きっと、そういうものなんだ。

作者紹介

奈良あひる 1990年生まれ 渋谷の会社員
体験をもとに、趣味で短篇小説を書いています。
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