プチ官能小説の習作 奈良あひる

短篇小説

「白い湯気」

雨上がりの午後。
百貨店の食器売り場で、私は偶然にも声をかけられた。

「すみません、それ、使いやすいですか?」

指さしたのは、私が手に取っていた白い急須。口が広く、丸みを帯びた優しい形をしている。

「ええ、これ、蓋が落ちにくくて。実家でも使ってたんです」

自然に笑っていた。なぜか、すんなり言葉が出た。

彼は、年のころなら五十前後。黒縁の眼鏡がよく似合い、シャツの袖口から、丁寧に整えられた手がのぞいていた。

彼「贈り物にしようと思ってね。女友達に」

そう言って笑ったが、声にいやらしさはなかった。不思議と嫌な感じがしなかった。

そのあと、喫茶店でコーヒーを飲んだ。
名前を名乗り合い、歳も、職業も、大して隠すことなく話した。

「あなたは、面白いね。すごく黙ってるのに、言葉を選ぶ人だ」

彼の言葉に、胸がじんわりと温かくなった。
何年ぶりだろう、人からそんなふうに言われたのは。

気づけば夕方、雨の匂いがまだ空気に残っていた。

彼「じゃあ、また」

私「……うん、また」

電話番号を交換するでもなく、それだけで別れた。
でも、翌週の日曜、同じ店で、彼はまた現れた。

まるで約束していたように。

三度目に会った日、彼の部屋に行った。
断る理由もなかったし、少し、期待もしていた。

部屋は想像よりもずっと整っていて、キッチンのタイルも白く磨かれていた。

「料理はね、嫌いじゃないんだよ」

カセットコンロに小鍋をかけ、湯気が立ちのぼる。
鍋の中は、ただの湯豆腐だった。ポン酢と、刻んだ青ねぎ。それだけ。

「女の人に食べさせるの、慣れてるでしょ」

ふと口をついて出た私の言葉に、彼はすこし驚いたように目を細めた。

「そうかもしれない。でも、いま隣にいるのはあなただよ」

豆腐をすくう彼の手が、やけに丁寧で、それを見ているだけで、胸の奥がざわついた。

食事が終わっても、テレビも音楽もつけなかった。
部屋には、食器の触れあう音と、湯気の匂いだけが残った。

私「……化粧、落としていい?」

彼「うん」

洗面所で顔を洗い、タオルで拭いて戻ると、彼はソファの上に静かに座っていた。
目が、まっすぐだった。怖くなるほど、澄んでいた。

私の手をとり、何も言わず、そっと引き寄せた。
体温のある手が背中にまわると、力が抜けていく。

彼「服、脱がせていい?」

その言葉に、私は小さくうなずいた。

何かを焦るでもなく、彼の指は、ボタンを一つ一つ、ほどいていく。
下着を外すときも、まるで壊れものを扱うようだった。

ベッドの上で、彼は私を見下ろしながら、目をそらさなかった。
そのまなざしの中に、欲望だけではない、何かがあった。
寂しさなのか、慈しみなのか、それとも、別のものなのか。

中に入ってきたとき、私は軽く息をのんだ。
でも、すぐにその動きに身をゆだねた。

音もなく、ただお互いの吐息だけが、部屋に満ちていく。

時間が止まったようだった。
遠くで、電車の音がかすかに響いていた。

やがて、彼が深く息をついたとき、私は目を閉じた。

何かが終わって、始まった気がした。

そして、また湯気のように静かに目の前が曇っていった。

つづく

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