青春プチロマン小説「横浜ルームナンバー508」最終話 奈良あひる

短篇小説

私は佳乃に、手紙を書いた。


【私 → 佳乃】

拝復

あの夜のことを、何度も思い出していました。
あなたの手が、私の髪に触れた瞬間のことを、特に。

私は、あのとき確かに“受け入れる側”でありながら、
あなたに触れられたことで、少しだけ“ほどける”ような感覚を味わっていた気がします。

わたしは、あなたと重なりたいと思っています。
でも、それは直接という意味ではなく……
誰かを介して、あなたに触れられたら、どんな気持ちになるだろうと考えてしまうのです。

それが、私の夫なのか、健介さんなのか。

けれど、あなたの眼差しが私に注がれるとき、
私たちの出逢いの経緯からしても“誰か”を経由することでしか届かない何かがある気がするのです。

……そんな言い方では、ずるいでしょうか。

でも今は、そのくらいの距離が、わたしにはちょうどよいのかもしれません。

あなたの返事を待っています。

敬具


投函した帰り道、急に雨が降ってきた。
傘を持っておらず、喫茶店に飛び込んだ。

店内は、薄暗く、冷房が効きすぎていた。
窓際の席に座っていた男と目が合った。

スーツの襟元が少し濡れていて、グラスの水に指をつけながら彼は言った。

「……濡れましたね。傘、忘れました?」

「ええ」

「同じですね。ひとりだと、こういうとき間が持たない」

私は微笑んだ。
彼が立ち上がって席を詰めた。
そして、ふたりは会話を始めた。
些細なことばかり。
仕事、天気、喫茶店のコーヒーの濃さ。

一時間後、私はその男とタクシーに乗っていた。
行き先は言わなかった。


ただ、雨が小降りになっていくのを後部座席の窓から見ていた。

ホテルの部屋で、男はコートを丁寧に椅子に掛けた。
私の服には、まるで触れる前提のような視線を向けた。

「名前は、聞かない方がいいですね」

私は頷いた。

あの夜のように、誰かの指が、私の髪に触れた。
頬にキスが落ちた瞬間、私は佳乃の手紙の一節を思い出していた。

「あなたがどんなふうに笑うのか、怒るのか、女の顔になるのか」

彼の手が、私の背中を撫でていく。
身体は応じていた。
……ホテルの白いシーツに背中を預けながら、私は彼の唇が鎖骨のくぼみに落ちていくのを、少しだけ遠い出来事のように感じていた。

触れているのは、この男の指だった。
けれど、胸に重ねられた手の厚みが、ふいに佳乃の手の記憶と重なった。
あの夜、私の髪を撫でてくれた、あのやわらかくもしっかりとした圧。

「この辺り……弱い?」

と囁かれ、返事をしかけた唇が、かすかに震えた。
“違う”、と喉元まで出かかった言葉を呑み込んだ。

男の舌が乳房の下をなぞる。
その軌跡が、佳乃が私を見つめたあの夜の視線と、妙に似ていた。

なぜ今、彼女の顔が浮かぶのだろう。
私は、男に抱かれながら、佳乃に見られているような気配を、確かに感じていた。

ショーツの上から指が入ってくる。
その動きも、乱暴ではない。
でも私の中には、佳乃が言ったあの言葉が響いていた。

――「あなたが、どんなふうに感じるのか、見ていたい」

あの言葉を、今、まるでこの男が言っているような錯覚に包まれる。

私は目を閉じた。

そうして、誰の身体に触れられているのか、
誰の眼差しを受けているのかを、わざと曖昧にしたまま、腰を浮かせた。

「……そこ、もう少し……」

息の合間に漏れた言葉が、まるで誰かへのメッセージのようだった。
男は気づかず、深く身体を沈めてくる。

繋がった瞬間、私は胸の奥で佳乃の名を呼んだ。
声にはしなかった。
けれど、呼んだ確かさは、肌の奥に残った。

彼の律動の中で、私は佳乃の手が私の肩を押さえていたあの夜の感覚を、まざまざと思い出していた。

今、私が開いているのは、
この男にではなく、
佳乃の残した感触に対してだった。夫を介して、健介さんを介してつながっている。

「ああ、イクっ」

何度かの波のあと、私は目を開けて天井を見つめた。
男は達したあと、雨がいい思い出になりましたと笑った。
男は満足げに横たわっていたが、私の視線はどこにも定まらなかった。

“私は、誰と交わっていたのだろう”
そんな問いだけが、体の中に熱を残していた。

どこか遠くで、佳乃の目が見ている気がした。

終わったあと、男はソファでタバコを吸いながら、
「何かを探してるんですね」と言った。

私には答えられなかった。

誰かを介して重なりたい――
そう願って手紙に書いた言葉が、今になって私自身を刺していた。

私はいったい、
佳乃を欲していたのか、
夫を取り戻そうとしていたのか、
それともただ、女としての自分を確かめたかっただけなのか。

帰り道、雨はもう止んでいた。
傘を買った意味がなかったことに気づいて、私は笑った。

笑いながら、どこか、泣きたかった。

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