私は佳乃に、手紙を書いた。
【私 → 佳乃】
拝復
あの夜のことを、何度も思い出していました。
あなたの手が、私の髪に触れた瞬間のことを、特に。
私は、あのとき確かに“受け入れる側”でありながら、
あなたに触れられたことで、少しだけ“ほどける”ような感覚を味わっていた気がします。
わたしは、あなたと重なりたいと思っています。
でも、それは直接という意味ではなく……
誰かを介して、あなたに触れられたら、どんな気持ちになるだろうと考えてしまうのです。
それが、私の夫なのか、健介さんなのか。
けれど、あなたの眼差しが私に注がれるとき、
私たちの出逢いの経緯からしても“誰か”を経由することでしか届かない何かがある気がするのです。
……そんな言い方では、ずるいでしょうか。
でも今は、そのくらいの距離が、わたしにはちょうどよいのかもしれません。
あなたの返事を待っています。
敬具
投函した帰り道、急に雨が降ってきた。
傘を持っておらず、喫茶店に飛び込んだ。
店内は、薄暗く、冷房が効きすぎていた。
窓際の席に座っていた男と目が合った。
スーツの襟元が少し濡れていて、グラスの水に指をつけながら彼は言った。
「……濡れましたね。傘、忘れました?」
「ええ」
「同じですね。ひとりだと、こういうとき間が持たない」
私は微笑んだ。
彼が立ち上がって席を詰めた。
そして、ふたりは会話を始めた。
些細なことばかり。
仕事、天気、喫茶店のコーヒーの濃さ。
一時間後、私はその男とタクシーに乗っていた。
行き先は言わなかった。
ただ、雨が小降りになっていくのを後部座席の窓から見ていた。
ホテルの部屋で、男はコートを丁寧に椅子に掛けた。
私の服には、まるで触れる前提のような視線を向けた。
「名前は、聞かない方がいいですね」
私は頷いた。
あの夜のように、誰かの指が、私の髪に触れた。
頬にキスが落ちた瞬間、私は佳乃の手紙の一節を思い出していた。
「あなたがどんなふうに笑うのか、怒るのか、女の顔になるのか」
彼の手が、私の背中を撫でていく。
身体は応じていた。
……ホテルの白いシーツに背中を預けながら、私は彼の唇が鎖骨のくぼみに落ちていくのを、少しだけ遠い出来事のように感じていた。
触れているのは、この男の指だった。
けれど、胸に重ねられた手の厚みが、ふいに佳乃の手の記憶と重なった。
あの夜、私の髪を撫でてくれた、あのやわらかくもしっかりとした圧。
「この辺り……弱い?」
と囁かれ、返事をしかけた唇が、かすかに震えた。
“違う”、と喉元まで出かかった言葉を呑み込んだ。
男の舌が乳房の下をなぞる。
その軌跡が、佳乃が私を見つめたあの夜の視線と、妙に似ていた。
なぜ今、彼女の顔が浮かぶのだろう。
私は、男に抱かれながら、佳乃に見られているような気配を、確かに感じていた。
ショーツの上から指が入ってくる。
その動きも、乱暴ではない。
でも私の中には、佳乃が言ったあの言葉が響いていた。
――「あなたが、どんなふうに感じるのか、見ていたい」
あの言葉を、今、まるでこの男が言っているような錯覚に包まれる。
私は目を閉じた。
そうして、誰の身体に触れられているのか、
誰の眼差しを受けているのかを、わざと曖昧にしたまま、腰を浮かせた。
「……そこ、もう少し……」
息の合間に漏れた言葉が、まるで誰かへのメッセージのようだった。
男は気づかず、深く身体を沈めてくる。
繋がった瞬間、私は胸の奥で佳乃の名を呼んだ。
声にはしなかった。
けれど、呼んだ確かさは、肌の奥に残った。
彼の律動の中で、私は佳乃の手が私の肩を押さえていたあの夜の感覚を、まざまざと思い出していた。
今、私が開いているのは、
この男にではなく、
佳乃の残した感触に対してだった。夫を介して、健介さんを介してつながっている。
「ああ、イクっ」
何度かの波のあと、私は目を開けて天井を見つめた。
男は達したあと、雨がいい思い出になりましたと笑った。
男は満足げに横たわっていたが、私の視線はどこにも定まらなかった。
“私は、誰と交わっていたのだろう”
そんな問いだけが、体の中に熱を残していた。
どこか遠くで、佳乃の目が見ている気がした。
終わったあと、男はソファでタバコを吸いながら、
「何かを探してるんですね」と言った。
私には答えられなかった。
誰かを介して重なりたい――
そう願って手紙に書いた言葉が、今になって私自身を刺していた。
私はいったい、
佳乃を欲していたのか、
夫を取り戻そうとしていたのか、
それともただ、女としての自分を確かめたかっただけなのか。
帰り道、雨はもう止んでいた。
傘を買った意味がなかったことに気づいて、私は笑った。
笑いながら、どこか、泣きたかった。