青春プチロマン小説「横浜ルームナンバー508」第10話 作/奈良あひる

短篇小説

***

呼び出されたのは、金曜日の夕方だった。
夫は定時で帰れず。曇り空のせいか、夕方の光は濁っていた。

「住まいとは別に、一つだけ借りている場所があるんです」
と健介は言った。
「一度だけ、来てみませんか。話だけでいい」

場所は、みなとみらいのはずれ、北仲通の裏手だった。
夜の帳が降りるころ、私はタクシーを降り、指定されたマンションの一室に入った。

鍵はすでに開いていて、部屋にはオレンジ色のスタンドライトと、グラスに半分ほどの白ワイン。
健介は、窓際で海を見ていた。

「奥さんには?」

「話してません。でも、知られても平気です。彼女は、そういう人ですから」

ワインを口に含むと、乾いた喉がふっとほどけた。
健介の視線が私の指先に注がれているのがわかった。

「きれいな手ですね。……人差し指、少しだけ、震えてます」

「緊張してるのかもしれません」

「じゃあ、そのまま震えさせていてください。少しだけ、触ってもいいですか」

それは“誘い”というより、“確認”のような言葉だった。

私は頷いた。

ベッドに導かれたとき、私の中ではすでに“事実”として受け入れていた。
肌と肌が触れ合うまでの間に、愛情も倫理も挟まる余地はなかった。

健介は、夫とはまるで違うペースで、私に触れた。
乱暴ではないが、まっすぐで、迷いがなかった。

「ここ、感じますか」

「……ええ」

「じゃあ、もっと感じてください」

衣擦れの音、ソファの軋み。
指先が腹の下をなぞり、唇が胸に落ちてきたとき、
私は声を漏らしそうになるのを、背中のシーツで押し殺した。

夫とは違う場所で、違うやり方で。
それでも同じように、私は女としてそこに存在していた。

何度目かの昂ぶりのあと、私の胸に頬を寄せたまま、健介がこう言った。

「もう一人、来てもいいですか?」

「……え?」

インターホンが鳴った。
数分後、ドアの向こうから、佳乃が現れた。

スプリングコートに、ベージュの細身のパンツ。
頬には少しだけ紅が差していた。

「こんばんは。突然ごめんなさい」

私が起き上がろうとすると、佳乃はゆっくりと近づいてきて、ベッドの端に腰を下ろした。

「わたし、ほんとはずっと……あなたに興味があったんです」

「私に?」

「ええ。あなたがどんなふうに笑うのか、
どんなふうに怒るのか、どうしてあんなふうに、女の顔になるのか……」

言いながら、佳乃は私の髪の一房に指をからめた。
香水のような微かな匂いが、息の間に混ざる。

健介はベッドの反対側で、静かにこちらを見ていた。
それは、夫婦のどちらとも違う、まったく別の男の顔だった。

「今日は……あなたを見たくて来ました。
触れるかどうかは、今、決めたい」

その瞬間、部屋の空気がやわらかく波打った。
熱でも、湿気でもない、“起きそうなこと”の体温だけが、視界に満ちた。

私は何も言わなかった。
けれど、佳乃の手が頬に触れたとき、
私は目を閉じた。

そのあとのことを、
覚えているのは指先の熱と、
唇に触れた、誰かの呼吸だけだった。

つづく

作者紹介 

奈良あひる 1990年生まれ 渋谷の会社員 
趣味で体験をいかした官能小説を書いています。応援よろしくお願いします。 

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