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呼び出されたのは、金曜日の夕方だった。
夫は定時で帰れず。曇り空のせいか、夕方の光は濁っていた。
「住まいとは別に、一つだけ借りている場所があるんです」
と健介は言った。
「一度だけ、来てみませんか。話だけでいい」
場所は、みなとみらいのはずれ、北仲通の裏手だった。
夜の帳が降りるころ、私はタクシーを降り、指定されたマンションの一室に入った。
鍵はすでに開いていて、部屋にはオレンジ色のスタンドライトと、グラスに半分ほどの白ワイン。
健介は、窓際で海を見ていた。
「奥さんには?」
「話してません。でも、知られても平気です。彼女は、そういう人ですから」
ワインを口に含むと、乾いた喉がふっとほどけた。
健介の視線が私の指先に注がれているのがわかった。
「きれいな手ですね。……人差し指、少しだけ、震えてます」
「緊張してるのかもしれません」
「じゃあ、そのまま震えさせていてください。少しだけ、触ってもいいですか」
それは“誘い”というより、“確認”のような言葉だった。
私は頷いた。
ベッドに導かれたとき、私の中ではすでに“事実”として受け入れていた。
肌と肌が触れ合うまでの間に、愛情も倫理も挟まる余地はなかった。
健介は、夫とはまるで違うペースで、私に触れた。
乱暴ではないが、まっすぐで、迷いがなかった。
「ここ、感じますか」
「……ええ」
「じゃあ、もっと感じてください」
衣擦れの音、ソファの軋み。
指先が腹の下をなぞり、唇が胸に落ちてきたとき、
私は声を漏らしそうになるのを、背中のシーツで押し殺した。
夫とは違う場所で、違うやり方で。
それでも同じように、私は女としてそこに存在していた。
何度目かの昂ぶりのあと、私の胸に頬を寄せたまま、健介がこう言った。
「もう一人、来てもいいですか?」
「……え?」
インターホンが鳴った。
数分後、ドアの向こうから、佳乃が現れた。
スプリングコートに、ベージュの細身のパンツ。
頬には少しだけ紅が差していた。
「こんばんは。突然ごめんなさい」
私が起き上がろうとすると、佳乃はゆっくりと近づいてきて、ベッドの端に腰を下ろした。
「わたし、ほんとはずっと……あなたに興味があったんです」
「私に?」
「ええ。あなたがどんなふうに笑うのか、
どんなふうに怒るのか、どうしてあんなふうに、女の顔になるのか……」
言いながら、佳乃は私の髪の一房に指をからめた。
香水のような微かな匂いが、息の間に混ざる。
健介はベッドの反対側で、静かにこちらを見ていた。
それは、夫婦のどちらとも違う、まったく別の男の顔だった。
「今日は……あなたを見たくて来ました。
触れるかどうかは、今、決めたい」
その瞬間、部屋の空気がやわらかく波打った。
熱でも、湿気でもない、“起きそうなこと”の体温だけが、視界に満ちた。
私は何も言わなかった。
けれど、佳乃の手が頬に触れたとき、
私は目を閉じた。
そのあとのことを、
覚えているのは指先の熱と、
唇に触れた、誰かの呼吸だけだった。
つづく
作者紹介
奈良あひる 1990年生まれ 渋谷の会社員
趣味で体験をいかした官能小説を書いています。応援よろしくお願いします。