短篇小説

それは、やっぱり水色の封筒だった。
今回は、裏に二つの名前があった。
「佳乃・健介」

夫が会社へ行った平日の午前中、私はいつものようにコーヒーを淹れ、台所の隅でその手紙を開いた。

拝啓
あれから何度か話し合いを重ね、私たちは一度だけ、
それぞれの“今の関係性”を試すような機会を作りたいと思いました。

そこで――
あなたのご主人と、私を偶然に出会わせる場面を演出させていただけませんか?

場所は、ショッピングモールのプラモデル屋です。
日時は、来週の土曜午後。
私は一人で、旧型の戦闘機の模型を探している“設定”で待っています。

勿論、すべては偶然をよそおって。
そして、その先に進むかどうかは、ご主人の選択に委ねたいと思っています。

偶然に似た、少しだけ用意された出来事。
私も、もう一度、“選ばれる女”でいられるかを試したい。

勝手をお許しください。
どうか、あなたの判断に委ねさせてください。

佳乃・健介

私は封筒を閉じて、台所のクロスの上に置いた。
心臓の音が、急にうるさくなる。

「断るべきだ」と思った。
けれど、「私だけがそんなことをして、夫には許さない」なんて、正義でも愛でもなかった。

夜、寝る前に、私は言った。

「来週の土曜、プラモデル屋さん一緒に行ってみない?」

夫は少し驚いた顔をしたけれど、「うん」とうなずいた。

それだけだった。

***

土曜の午後。
店内は、ガラスケースに並ぶパーツの山と、模型誌の匂いで満たされていた。

一緒に見ていた私は、ちょっと別の買い物ということで、いつものようにその場を離れ、距離をとってウィンドウ越しに店内をのぞいた。

少しして、佳乃らしき女が現れた。

赤いカーディガンに、膝丈のグレーのスカート。
目立たないけれど、清潔で整っていた。
彼女は、棚の端にしゃがみこみ、飛行機のパーツを見つめていた。

夫が気づいたふりをして声をかけたのか、あるいは本当に偶然を装えたのか、
その瞬間は見えなかった。

ただ、二人が棚の前で笑い合っているのが、ゆっくりと視界に映っていった。

***

その夕、夫はちょっと出かけるといって出て行った。ご飯は食べてくるかもとも言った。
その後「ちょっと飲んでくる」とだけLINEが届いていた。

予想外に帰ってきたのは翌日だった。

洗面所にあったタオルの匂いが、いつもと違っていた。
淡い石鹸の香りが混ざっていた。

私は何も聞かなかった。

二日後、ポストにまた一通、封筒が届いていた。
今度は、佳乃からだけだった。


拝復
先日は、計画にご協力いただき、ありがとうございました。

ご主人と、あの夜、静かなホテルで過ごしました。
プラモデルの話をしながら、手をつなぎ、
気づけば、私は久しぶりに“自分の体を気にする女”になっていました。

抱かれたのか、それとも寄り添っただけなのか。
あなたに正直にお伝えすべきか迷いました。

けれど、これは私の誠意です。
ご主人は、確かに私の中に入り、
私はそれを、拒まなかった。

壊したいわけではなく、確かめたかった。
誰かの手のなかに、もう一度、女として形を持てるのかどうか。

勝手を重ねて、申し訳ありません。

佳乃


読み終えたあと、私は深く息を吸った。
目は、少しだけ潤んでいた。

けれど、泣きたくて、ではなかった。

それは、どこか「これで、帳尻が合った」ような気配だった。
まるで、組み立てミスで余っていた小さな部品が、やっとはまる場所を見つけたような。

夜、夫がプラモデルをいじっている後ろ姿を見ながら、私は台所で味噌汁を作っていた。

いつものように、だしをとり、具を入れて、味噌をとく。

ただ、いつもより少しだけ、豆腐を多く入れた。

「お味噌汁、できたわよ」

「お、いい香り」

夫の声は、変わらなかった。

それで、十分だった。
しばらくは、この“十分”の温度で、生きていこうと思った。

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