「白い湯気」続々編 — 濡れ縁 —
それから、二週間が過ぎた。
彼からの連絡はなかった。
私も連絡しなかった。
互いの番号さえ知らないのだから、それは当然のことだった。
ただ、土曜の午後になると、百貨店の食器売り場の周りを、つい歩いてしまう。
それが、癖のようになっていた。
四週目の土曜、彼はいた。
「君は……ほんとうに、来ると思ってたんだよ」
彼の声には、どこか安堵が滲んでいた。
それが、嬉しいのか悲しいのか、自分でもわからなかった。
「久しぶりに、いい椀が入ったんだ。寄ってく?」
そんな口実に、私は首を縦にふった。
本当は、理由なんて、要らなかった。
***
部屋に入ると、また湯がわいていた。
鍋の中には、豆腐だけでなく、今日は春菊や椎茸、葛切りが加わっていた。
食卓が少し、彩りを増している。
「今日は、ご馳走ね」
そう言うと、彼は少し照れたように目をそらした。
「……誰かを、もてなすのが、好きなんだと思う。
ただ、それが何のためかは、自分でもよくわからない」
食事のあと、私たちは、湯の残った鍋を見つめていた。
冷めゆく鍋の中身が、まるで私たちの関係の温度そのもののように思えて、胸がきゅっとした。
「泊まっていけば?」
その言葉が聞こえた瞬間、背中が一度だけ、震えた。
答えないまま立ち上がり、私は静かに彼の前にしゃがんだ。
両膝を揃えたまま、顔を上げる。
「また……抱いてくれるの?」
彼は、ほんのわずかだけまゆをひそめた。
それは戸惑いではなく、戸惑いのふりだった。
「そんなふうに聞かれるの、初めてだな」
そう言いながら、彼はゆっくりと、私の頬に触れた。
その手のひらに、まだ湯気のような温もりがあった。
***
ベッドの上で、私は裸のまま、うつ伏せになっていた。
彼は後ろから、背中に顔をうずめるようにして、私を抱いている。
「君の匂いがする。うちの寝具に」
「いや?」
「いやじゃない。……むしろ、いい匂いだと思ってる」
しばらく黙ってから、彼は続けた。
「湯豆腐は、飽きないね。
でも、そう言って食べる女は、いつかいなくなる」
「私は?」
彼は答えず、ただ、私の肩に唇を押しつけた。
そこに、答えがあるような気がした。
***
朝方、雨の音で目が覚めた。
カーテンの向こうで、静かに降る雨。
まるで昨日の夜が洗われていくようで、少しだけ寂しかった。
私はキッチンに立ち、初めて彼のために、味噌汁を作った。
冷蔵庫に残っていた豆腐とわかめを入れた、簡単なものだった。
火を止めると、白い湯気が立ちのぼった。
彼が背後からやってきて、鍋のふちに手を置いた。
「……そのうち、君の味に慣れて、離れられなくなるかもしれない」
冗談のように言いながらも、声が、すこし震えていた。
私は黙って椀によそい、テーブルに並べた。
二人分の椀。並ぶ箸。
何も言わず、二人で湯気を見つめていた。
そのぬくもりが、いつまでも消えなければいいと、心のどこかで思っていた。