露出計の向こう 第5話

短篇小説
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短篇小説

第5話「露光の罠」

日曜の午後、夫は一人で写真展に足を運んだ。写真展のフライヤーを偶然目にして興味を持ったのだ。私はとまどいをうまく隠せていたかはわからない。


ギャラリーの入り口で、受付の若い女性がにこやかに迎える。
「どうぞ、ごゆっくり」
言葉に、どこか含みがあるように感じた。

夫は静かに階段を上り、二階の展示室へ足を踏み入れた。

壁には、たくさんの女性の姿が並んでいた。
誰もが美しく、繊細に写し取られている。
だが、ひとつだけ、彼の心を凍らせる写真があった。

黒白の正方形の額の中に映る女。
肩のあたりの白い布は乱れ、胸元がはだけている。
そして、はっきりと見える左手の薬指に、細い指輪。

まぎれもなく妻だった。

夫は息を詰めた。
体の奥から熱いものが込み上げ、喉の奥に詰まった。

——これは、いつのことだろう?
——誰に撮られたんだ?

その時、背後から声がした。

「いらっしゃいませ」
振り返ると、あの写真家が立っていた。

「ええ……」
夫は言葉を探しながら答えた。

「実はあの写真は、モデルさんのご了解を得て、展示しています。とても美しい瞬間でした」
写真家の声は丁寧だったが、どこかに揺るぎない自信があった。

夫は目をそらし、再び額の写真を見つめた。
妻の肌の質感、微かな汗の光沢、そして何より、指輪の輝きが彼の心を刺した。

帰宅した夫は、何度も妻の顔を見た。
いつも通りの微笑み。
だが、その笑みの裏に、何かが隠されているのを確信した。

「……あの写真展、行ってきたよ」
夫は夕食の食卓で切り出した。

私は戸惑ったが、すぐに微笑んだ。

「写真、撮られたのか?」
「ええ。旅先で……少し、羽を伸ばしたくなって」
「羽を伸ばす? 俺に隠れて?」
夫の声は震えていた。あの写真家と体の関係はあったのかという問いを、夫は押し殺したようにも見えた。

私はは黙ったまま、唇を噛んだ。

「……許してくれとは言わない。だけど、あれは私の一部なの」
「俺たちには、俺たちの時間がある。あれは、俺には見せられなかった自分」

夫は怒りよりも、悲しみで胸がいっぱいだった。
彼女の肌に触れた夜が、遠い記憶のように霞んでいく。

その夜、ベッドの中で、夫は初めて妻の肌をじっと見つめた。

いつもは触れるだけの背中や腕に、今は鋭い視線を向けていた。
彼女の指に光る指輪が、まるで別の人生を告げているようだった。

「……どうして、俺に言わなかったんだ」
「言えなかったの。罪悪感が重すぎて」
彼女の声はか細かった。

「身体だけじゃなくて、心も離れていくようで怖いんだ」
「私も……同じよ」

二人の間に、言葉にならない壁が立ちはだかった。

翌日、夫はもう一度、写真展へ向かった。
今度は、自分の心の痛みと向き合うために。

壁にかかる写真の数々は、ただの「絵」ではなかった。
それは、妻の知らなかった世界、
そして妻の知らなかった「私」が映し出されていた。

夫は決意した。
怒りや裏切りではなく、これからの二人の距離を探すために。

つづく

第6話

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