習作6

短篇小説

「白い湯気」外伝 — 湯のまにまに —

三年ぶりに、その百貨店に入った。
仕事の帰り道、たまたま時間が空いただけだった。
いや、本当は、自分でも気づかないふりをしていただけかもしれない。

季節は初秋。
日差しは柔らかくなり、吹く風にも少しずつ乾いた匂いが混ざり始めていた。

エスカレーターを昇りながら、私は心のどこかで思っていた。
彼はいない、と。
あれはもう終わった時間で、いまは生活の引き出しに丁寧にしまわれた、ひとつの思い出。

……なのに、その人影を見た瞬間、心臓が跳ねた。

白いシャツの背中。
あのときと同じ、ゆっくりとした動き。
そして、湯飲みを手にして、光に透かすように眺める指先。

彼だった。

私は言葉も出せず、ただ数歩離れたところから立ち尽くしていた。
彼が気づいたのは、数秒後だった。

「……久しぶりだね」

そう言った声は、記憶より少し低く、少し疲れていた。
けれど、その音の中に、やさしさは残っていた。

「ほんとうに……久しぶり」

それしか言えなかった。
言いたいことは山ほどあったのに、言葉は全部、胸の奥に沈んだままだった。

「まだ、湯豆腐、食べてる?」

聞いてから、私は思わず笑っていた。

「うん。でも、春菊はいつも余る」

「俺は逆。豆腐を先に食べて、野菜だけ残る」

まるで昨日の会話の続きのようだった。

***

その夜、ふたりは同じテーブルにいた。

もう彼の部屋ではなかった。
小さな和食の店の個室で、湯豆腐の鍋をはさんで向かい合う。

「……再婚したんだよ。2年前に」

静かに彼が言った。
私は、驚きもしなかった。
心のどこかで、そうだろうと思っていたのかもしれない。

「君は?」

「ううん。ひとり」

少しの沈黙が落ちる。
その沈黙の中にも、昔のような緊張はなかった。
ただ、お互いが、別の岸に立っているという事実だけが、静かに流れていた。

「でもさ」

彼が言った。

「君と食べたあの豆腐の味、忘れられなかった。
いや、味っていうか……あの夜の、静けさ。湯気の音と、肌の感触と、あの……沈黙がさ」

私は少しだけ目を伏せた。

「わたしも、たぶん……同じ」

鍋の中から、豆腐がひとつ、静かに揺れて浮かび上がった。

彼がそれをすくい、私の器にそっと置いた。

湯気が、ふたりの間にふわりと立ちのぼる。

***

その夜、ふたりは別々の駅で降りた。
並んで歩くことも、抱き合うことも、しなかった。

けれど、別れ際に、彼は小さくつぶやいた。

「ありがとう、あの夜。今も、俺の一部になってる」

私はうなずいた。
声にすると、どこか壊れてしまいそうだったから。

電車の窓に映る自分の顔が、少しだけ泣いていた。

でもそれは、悲しみではなかった。
湯気が立ちのぼるように、心のどこかが、あたたかくほぐれていた。

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