エピローグ ― 湯のあと ―
あれから、季節がひとつ、変わった。
梅雨の湿気が収まると、街には、蝉の声と土のにおいが満ちてきた。
うっかりしていると、通り雨に傘を奪われる、そんな不安定な夏の始まりだった。
彼とは、会わなくなった。
いや、正確には、連絡をとる手段を、お互いに持っていなかった。
名前と、声と、肌の熱――
それだけを交換し合った関係は、不思議と潔かった。
ある夜、寝室のカーテンが風に揺れて、ふと目を覚ました。
隣に誰もいないことが、やけに静かに感じられた。
彼がいた日々は、まるで湯気のようだった。
湧き上がり、満ちて、部屋の隅々に沁みて、やがて静かに消えていった。
でも――
それは、確かに存在していた。
温度があり、匂いがあり、互いを包み込んだ、あの時間は。
***
ある日曜日、いつもの百貨店の前を通った。
もう、彼の姿を探すことはやめていたのに、無意識に足が止まる。
食器売り場には、新しい急須が並び、若いカップルがなにやら選んでいる。
ふと視線をやると、棚の奥に、あの日と同じ白い急須が一つだけ、残っていた。
私は、それを手に取った。
「使いやすいですか?」
自分で口にしたその言葉に、思わず微笑む。
レジを済ませて、包まれた急須をバッグに入れた。
湯を注ぐ日は、もう決まっている。
その夜、私はその急須で、ひとり分の番茶を淹れた。
ゆっくりと湯を注ぐと、白い湯気が立ちのぼった。
その湯気の向こうに、彼の横顔がふいに浮かんで――そして、また静かに消えた。
「……ごちそうさま」
私は、ひとりごとのように言った。
湯気は、過去ではない。
たしかにそこにあって、消えてゆくものだ。
人も、愛も、たぶん同じだ。
でも、その一瞬のぬくもりがあったから、私はいま、ひとりでも冷たくない。
そんな気がした。